光のラナンキュラス

Act.4 戦場


 剣撃の音を聞く度にすくみ上がっていた体も最早馴れてしまった。襲い掛ってくる兵士の剣を屈んで避けると素早く意識を自分の中に眠る能力に向ける。
 その瞬間、動いていた雲も鳥達も、そして太陽でさえも動きを止めてしまう。全ての時空が遮断された空間で動けるのはただ一人。

「時空操作は孤独ですわね」

 動ける人も喋る人も何処にも居ない。ただあるのは自分の息遣いと耳鳴りがするような静けさだけ。
 紅の瞳を伏せて嘆くも誰も助けてはくれない。彼女――ローレンは静かに一歩を踏み出すと剣を大きく振り上げる兵士の左胸にそっと触れる。
 とくん、と辛うじて感じとれるような鼓動。実際には緩やかに時は流れているらしい。全てが止まっているように見えるのは動きがゆっくり過ぎる為。

「貴方達が悪いわけではないのは承知しています。……ごめんなさい」

 ぎゅっと強く眼をつむって腕を突き出す。
 時空を操れる、それは早くすることも遅くすることも可能な技。触れる左胸が激しく、強く鼓動した。心臓だけを動かして老化を早め、自然死へと誘う。どさり、という音が聞こえたのは体が重力に引っ張られたせい。ゆっくりと落ちていく筋力でも重力には敵わない。脂汗を流しながら息絶えた兵士を直視することもできない。
 すすり泣きながら次へと歩むその姿はまるで死神のよう。自分がただ、怖くなった。

「ローレン……」

 時間の狭間で一人戦いを行っているローレンのすすり泣く声が聞こえた気がする。本来、人を傷付けることを嫌がるローレンが兵法を学び始めた理由を問うた時、彼女は笑ってこう言った。

『戦いを避けたいからです』

 レイはその言葉にただそうか、としか言う事が出来なかった。心の何処かではそんな事出来る筈無いのにと思う自分と、そうなれば良いのにと思う自分がいたのは分かっていた。でも元来知識を持っている彼女にはそれが避けられないことだと分かっていた。
 片手に持った青碧の宝玉が埋め込まれた短剣を強く握りしめて辺りを漂う形無いものにそっと問いかける。姿は見えないけれどいつもそれは側にいて、ずっと見守ってくれている存在、人の多くはその存在を知らない。

「お前達は私を裏切らないものね……」

 道でも歩くように戦場を行くレイに多くの兵士達が斬りかかってくる。それを全て紙一重、且つ無駄な動きをせずに避けるのは自分の体を知っているから。擦れ違い様に叩き込んだ炎は肉を焼き、胴体を焼き切る。どんなに自分が怖い存在に思えても自分は自分を貫くしかない。欲しいのは平穏な日々、それだけ。でも今はリアを止めたいとも思う。それには表舞台に出るしか無かった。
 迫る軍勢にふと溜息を吐く。
 ――いつまでこんな事を続けなければならないの?

「ブルグナーが畳み掛けてくる……」

 ボウガンを構えながら静かに呟くフィーリにレイは静かに首を振る。宣戦布告をしたと言ってもリア以外の人々が何を目的としているのかは全く分からない。城に残してきたアルデシアやリカルド、ジェレマイアやイシュメルは今頃どうしているのだろうか。
 そんな中、迫っていたはずの軍勢が一気に方角を変える。統率の取れた兵士達は一人も乱れることなくレイ達を避けていった。その様子に誰もが呆気に取られる。

「西に進路……回り込んで袋の鼠にするつもりか! 回り込まれないように何故しない、アイリーンは何をしているんだ!」

「レイ、そんな事よりもアレを見てよ!!」

 フィーリの指差した方向を見れば炎に包まれる城。中まで火は回っていないようだが燃えているのは恐らく、城下町。一体何処から侵入を許したのか、と唇を噛み締めるが今戻っても加勢する頃には間に合わない。
 それでも戻ることを選択するか、そのまま戦い続けるか。

「兵士達に伝えろ、このまま戦い続ける」

「でも!!」

「あちらの方に精鋭を残して来たんだ。それにこっちには注意が向いていないこと、まだ増援が来る可能性がある事から考えれば、挟み撃ちにされるぞ」

 冷静な言葉を列ねる中にも焦りが見え隠れする。情に流されるならばきっと戻ることを選択していたに違いない。だけども知識がレイを咄嗟に引き留めた。

「このまま進む」

「……うん」

 もう後戻りは出来ない。炎に包まれる城下町と兵士の侵入を許す城を見つめる。レイは手早く生き残った騎士たちを招集すると土地勘のある者から情報を引き出し、これからの進路を定めた。
 何も出来ない自分がもどかしい。神は気まぐれで気が向かないと啓示を出してはくれない。レイやローレン、アルデシアのように自由自在に操っては世の理を乱してしまうのは分かっている。ただ、今何故力を貸してくれないのか聞きたかった。


+++++++++



 迫り来る炎に身がすくむ。自分を守ってくれるであろう騎士達は殺気だっているものの、手を握ってくれているジェレマイアの暖かさに反狂乱にならないで済んでいる自分がいた。それでも側にいると誓ってくれた人が今此処にいない。

「アルデシア様……肩を落とさずに。リカルド様は必ずや迎えに来てくださいます」

 いつの間にか憂いを帯てしまっていたのか、心配そうに覗きこんで来たジェレマイアに力なく微笑んで見せる。
 戦いになれば誰もが駆り出されてしまう、侍女も見習いも、文官も。騎士王子と言われるリカルドが戦線を離れるわけにはいかないのも分かっている。

「私は大丈夫、イシュメルと合流しましょう。一人では危険だもの」

 ジェレマイアの父でもあるデーべライナー男爵と一緒にいる筈のイシュメルは襲撃にあったせいで恐らく一人でいるであろう。
 【公侯伯子男】の地位、つまり公爵から男爵の地位にいるものは襲撃の際に速やかに王のもとへ招集される。それが例え文官の役割だけを仕事としていても。

「分かりました……では【乱舞の間】に参りましょう。彼処は非常時の避難場所ですから」

 そう言って手を引きながら歩く彼にアルデシアは漸く微笑んだ。周りを固めてくれる騎士たちに申し訳ないが不安があちらこちらにさまよう中、心から笑えたかもしれない。
 ――それが最後の笑顔になるとは思っても見なかった。

「そう簡単には逃がさないわよ、アルデシア」

 突如、空間をねじ曲げて現れたのは焦茶の髪と燃えるような怒りを宿した緑の瞳を持つ女性。その右手は以前現れたときに負った火傷のせいだろうか、真っ白な包帯が巻かれている。

「平穏を乱すのはもうやめて!」

「貴方に分かってもらおうとは思わないわよ。ただね、平穏と称して知らない振りを奴が嫌いなの」

「私達、何に知らない振りをした!? 無視されたと思ってるのは貴方だけかもしれない、リア……なんで話さないの?」

 その瞬間、浮遊する女性――リアの瞳がきつく光る。アルデシアにはその答えが分かっている。暗闇の中にたった一人の情景、それに離れていく人々。さみしい、一緒にいてほしいと言えないから分かってもらえない。

 ――私は醜い?

 ――私は愚か?

 ――違う。

 答えは簡単だった。それは人が持つ筈のない理の力を持っていたから。人は人種以上の力を得た時、それを排除しようとし、決して認めない。そう、残酷なまでに。

「貴方は一人ぼっちで泣きじゃくる子どもと一緒……少し周りを見れば手を差し出してくれる人は沢山いるでしょう?」

 幼子を諭すように紡がれる言葉に騎士達は緊張感を緩めないまま聞き入る。優しい声音で語り掛けるアルデシアに拒絶の反応を見せたのはリアだけだった。

「そういう甘い考えを言ったのは貴方だけじゃないわ。でもね、人は人知を越えた力を手に入れると自分以外どうでもいいの。だってね……」

 くすくすと笑いながら向けられる緑の双鉾には狂喜の色が宿った。

「世界を変えるのは私だから」

 それが出来るのは私だけ、そう断言できる彼女は世を知らないのか、それともそれだけの自信があるのか分からない。だけどもアルデシアがそう簡単に屈する筈が無かった。

「ふざけないで!! ブルグナー王国を制圧した時にもう分かったわ、貴方は全てを自分のものにしたい。抗う者は全て殺してしまうのだもの!!」

「覇者たる者、民の思想を操作して何が悪い……この戦いもその一つよ!!」

 その瞬間一気に大気が震える。それが魔術の発動だと悟って咄嗟にジェレマイアの手を引いて自分の背中に隠した瞬間、鋭い刃を持った氷の粒が降り注ぐ。素早く地面を蹴って長い長い廊下を駆け出す。補助の効果をもたらす歌の魔術しか使うことが出来ないアルデシアに取っては対峙するのは不利。何処か広い場所で、全ての準備が出来る場所へ。

「全く……私から逃げられると思って? あんなの足止めにもならない」

 護衛に着いてきていたはずの騎士はもう居ない。空間を歪めて現れた時のように彼らを其処へ押しやったのだろうか。彼女とレイの魔術は未知数。何が出来ないのか問う方が彼女たちは答えやすいかもしれない。

「それは俺が居るからだということ忘れるな」

「えぇ、そうでしたわね。我が君、ウィレム王」

 ふわふわと宙を浮くリアの背後から現れたのは茶の短髪に鋭い目つきをした男性。リアがウィレム王と呼ぶ彼こそ――。

「初めまして、歌姫アルデシア……私と共に来て貰おうか」

 片手には大剣、剥き出しの腕は筋肉がうっすらと浮き出ており、力では敵わない。勿論、二人を睨むジェレマイアの少年の力でも。
 もう何処にも逃げ場所は無いのだろうか。敵を打ち破る能力において、どうしてこの能力は大切な人を守ることが出来ないのだろう。初めてフィーリが言っていたもどかしさが分かった気がした。私もレイのような力が欲しい、心の底からそう思う。
 アルデシアはずっと繋いでいたジェレマイアの手を離す。突如失った暖かさに瑠璃の瞳を見開く。咎められる前に行かなければ。重い足をゆっくりと前にやる。じんわりと鼻の奥が痛くなる。行かなければ誰も救えない、その恐怖感が彼女を動かす。だが、強い力で腕を引かれてとすんとぶつかったのは固く冷たい甲冑、腕を掴む掌は温かい。

「悪い、遅れた」

 呼吸荒くしながら短く呟く彼の萌葱の瞳を見ればもう何も言うことは無かった。どれだけ不安だったか、どれだけ寂しかったか。戦いとは分かっていても側に居て欲しかった、居たかった。

「ちっ……此処の人達は本当に邪魔するのが好きなようね」

「ふん、逆に都合が良いさ」

 そう言って大剣を肩に預けて見下ろしてくるウィレムにリカルドはふと微笑を浮かべる。嘗ては肩を並べて理想を口にした仲でも今では一国の王と世継ぎの王子。同じ立場ではもう、ない。国盗りが始まったのだから。

「俺はこの時を待っていたのかもな、名目を掲げてお前を殺す時を」

 剣先を真っ直ぐリカルドに向けるウィレム。ただならぬ緊張感に何をするべきなのか見出せないジェレマイアはただ戸惑うばかり。国の重鎮が剣を交えるなど本当はさせてはならないというのに。
 だけども止める前に鋭い剣音が響き渡る。先に仕掛けたのは勿論ウィレム、大剣を軽々と振り回してみせる彼に負けじと緑柱石の埋め込まれた剣を振るうリカルド。両者が重々しい音を鳴らしては刃は交わる。その戦いに更に火を付けたのはリアだった。

「ほらほら、防御では魔法は避けられないわよ?」

 くすくす笑いながら術を放つリア。炎は弧を描かずに引き寄せられるように真っ直ぐリカルドに襲いかかる。普通の人間には魔法に対抗する力はない。何故ならば魔法と言う存在が新しいもので人々にまだ馴染んでいないから。
 恐らく人々がそれを研究する機会が与えられていたならまた違っていたかもしれない。

 ――でも自分なら。

 そう思って二人が前に出たのは同時だった。

「《我が心の歌を口ずさむのは声にあらず。大気よ、世界が震えるほどにその歌を奏でたまえ!》」

「《深淵なる闇より参りし死神よ、夢幻の世界へと導け!》」

 濃厚な歌の力とまだ馴染んでいない弱々しい闇の魔力が重なりあう。強い歌の力は闇の力が消えそうになるのを盛り上げては押さえ込む。自然と安定を促す力は滅多にみられない。
 それは人が作り出した音色と言葉に、神が悪戯をして出来た奇跡。
 それは炎を必死に追い掛けて包みこむと闇に飲み込まれて消えた。そして、リカルドを包みこむように淡い光が降り注ぐ。

「余計なことを……!」

 舌打ちして鋭い瞳で睨むリアに今更恐怖など感じない。例え一人だけの力は弱くても、皆と合わせれば怖くないと悟ったから。

「手出しはさせないわ! 安寧に望むことがないならば人の安らぎを壊して良いの?」

「その安らぎに甘んじている貴方が馬鹿みたい。下等な人種に恋い焦がれて何が生まれる? 何も生まれやしない!」

 再び怒りに任せて魔法を放って来るリアに哀れさをも感じる。人を信じることが出来なくて辛かった日々。きっと自分も人に恵まれなければそうなっていたのかもしれない。

「アルデシア様!」

 緊迫感ある声にふと我に返る。声を発せられた方向を見れば必死に手を伸ばすジェレマイアの姿。それは余りにも極端に遅く見えて、彼が自分を庇おうとしていることが分かった。

「死になさい、歌姫!」

 迫る氷の刃。こんなに近くに迫っては魔法も放つことさえ出来ない。
 その時、二つの風が二人の間を駆け抜けた。

「殺せという命令はしていない」

 冷ややかな刀身が氷の刃を打ち砕き、素早くリアの首元へそえられる。流石はリカルドと同等の力を持つウィレム。その剣捌きには隙が無い。

「怪我は無いか?」

 優しい萌黄の瞳が見下ろして来る。優しさで溢れた表情にほんのりと浮かぶ珠の汗。そして腕に縋ろうとした瞬間、彼の異変に漸く気がついた。
 ぬるりとした感触とほんのりとした暖かさ。少しツンとする鉄の匂いは――。

「……血が」

「このくらいなんて事はないよ」

 リアの炎の魔法を防いだと同時に保護魔法をリカルドに掛けた筈。何故その防護を破って氷塊が突き刺さったのだろうか。
 その時、吐く息に異変を感じた。先程まであんなに温かかった空気が冷たくなっている。急速に低下していく温度に警鐘をならそうとした時には既に遅かった。

「魔法の知識が無い癖に発想は豊かね」

「下等な人種と罵られては王として面目が立たぬ」

 霜が降りて凍りついたように動きを止めるリカルド、アルデシア、ジェレマイアの三人の姿にリアは満足そうに口元に弧を描く。
 子ども一人を除いては微かな動きを見せる二人。荒い息をして睨むリカルドにそっと歩み寄ると優しく毒を吐くように囁く。

「お姫様を連れ去る前にちょっとしたショーを見せてあげようと思うの。貴方が死ぬ、とっておきのお芝居」

 そういって微笑んで見せるリアに抵抗さえ出来ないのが悔しくて堪らない。
 必死に眠りに落ちる寸前で堪えているアルデシアがぼんやりとこちらを見つめて来る。

 ――誰か、誰か。

 必死に助けを呼ぶ声を出そうとするものの声は震えない。
 リアはそんな様子を嬉しそうに一瞥するとそっと立ち上がってウィレムに歩み寄った。

「陛下、後はお好きに」

 その言葉にやっと待っていた瞬間が来た、と胸が高鳴る。ずっと邪魔で、唱える正義が馬鹿らしくて、むかついて。
 ウィレムは静かに大剣を構えると躊躇なくリカルドの胴を下段から上段に深く切り裂いた。大きくのけ反って倒れ行くその姿を見つめる。人なんて呆気ない存在だ。弱点を突かれればあっという間にそれまでの生を終えてしまう。だからこそ、頂きが欲しいと思う。

「嫌……嫌、リカルド」

 今まで渾身の力で眠りに耐えていたアルデシアがゆっくりと床を這う。
 脈打つ度に流れる血にも関わらずにただ手を伸ばした。急速に失われつつある体温。ゆっくりとなっていく呼吸。失うことがこんなに怖いなんて思わなかった。

「嘘よ……卑怯だわ」

 頬を伝う涙を拭うことなくウィレムを睨みつける。必死に血を止めようと血管を圧迫するが小さな手の平では傷を抑え切ることが出来ない。

「……ア、ル」

 空気に等しい声が微かに響いた。あの力強い声は聞こえない。だけでもぴくりと動いた手の平に必死に縋り付いた。

「私、此処にいるわ。ねぇ……大丈夫って言って。泣くなって言って」

 ――貴方の声ならば私はきっと安堵できるから。
 だけどもその声を聞く前に強く腕を引かれる。無理矢理立ち上がらせられるが、術に掛かった体は言うことを聞いてくれない。

「王子は死んだ。ほら、直ぐにでもあの世に行きなさいよ」

「……離、して」

 ただの悪夢だと言って欲しい。目が覚めれば悪戯っぽい笑顔が覗き込んで、おはようと挨拶をしてくれる。幸せを壊したのは――彼女。

「殺してやる……殺してやる!」

「私が憎いでしょう? ほら、ほら!」

 まるで煽るように靴で思いっきりまだリカルドを蹴り飛ばす。
 その瞬間、部屋に強大な圧力が掛かって体勢を崩す。急な覇気の変化に驚かざるを得なかった。
 体から燃え上がるように立ち上る炎は幻覚の筈なのに近寄れば熱い。辺りを包み込む異様な空間に最早呑まれる寸前。恐らくそのままいれば圧力に押し潰されていただろう、彼女諸とも。
 それを止めたのはウィレムだった。剣の刃ではなく柄を素早く腹部に叩き込む。滑るように壁に叩き付けられたアルデシアはうめき声を一つ上げてぴくりとも動かなくなった。そんな彼女にウィレムは歩み寄ると力なく眠る顔を覗きこむ。
 閉ざされた瞳から流れる涙が一粒、床に落ちた。

「さて、後は王様だけね。行ったらもう終わってるかも、どうする?」

「構わん、玉座を味わえ」

 その言葉にリアはにっこり笑って見せると嬉々として部屋を去る。
 残された部屋には血溜りに息絶えたリカルド、気を失ったアルデシア、そして眠ったままのジェレマイア。そして平然と立ち尽くす自分。全てはあの女が現れたときに変わってしまった。嫉妬も隠さず、欲望にまみれ、怒りをぶつける。そんな人間の本性をありありと見せ付けられた年月。それを招いたのは紛れもなく自分だけど。

「リカルド、お前は優しすぎた」

 ウィレムは静かにアルデシアを抱えあげると部屋を一瞥することなく、去っていった。


+++++++++



 かつりかつりと足音が響きわたる。誰も居ないその場所を颯爽と歩く人物は黒の外套を身に纏い、まるで自分の居城だと言わんばかりの猛々しい貫禄さえ感じる。
 だけども人の気配を感じれば直ぐに陰と転じて闇に隠れる。その所作はまるで闇に生きる者のようだ。
 暫く歩くと廊下にそえられた硝子から外の様子が見える。どうやら帰還の第一陣が戻ってきたらしい。その中にどこかで見たような少女と兵士の姿。
 彼女の目的である人物はそこにいない。

(……読み間違えたな。リアは此処に帰ってこない)

 セーヴェリング王国とブルグナー王国の軍事力の差は彼女の能力を持っても埋められない。それが分かっていたから此処に来たのに、今では相手の動向さえも読み間違える始末。それも天才軍師の名が泣くというものだ。

「私が幼いから忠誠心を返られるとでも? その考え、甘いと思いますわ」

 丁寧な口調ながらもその話には棘と毒が潜んでいる。下から聞こえて来る声にその様子を覗き込めば、やはり知っている少女。確かデーベライナー男爵の子息、双子の片割れ、イシュメル。
 兄であるジェレマイアに能力は到底及ばないが頭の回転は彼女が舌を巻くほど早い。そして、幼さ故要らぬ事を口走ることもある。

「貴方の足りない頭では戦うことしか能が無いようですわね、流石は騎士様ですわ」

「――貴様!」

 ぱん、と渇いた音が鳴り響く。その瞬間、イシュメルの小さな体が吹き飛んだ。壁に叩き付けられても尚、敵意剥き出しで睨み据える彼女は相当気が強いらしい。
 このまま放置する冷徹さは本来の彼女には無い。仕事だからこそ、能力の無いものを切り捨てて、戦場に送る。どんなに残忍な仕事だと分かっていても、自分に出来ることはただ人の能力を分析し、それが役に立つか、立たないかを判断すること。
 彼女は静かに息を整えると気を一点に集中させる。あんなに忌ま忌ましいと思っていた力がこんなに役に立つなんて思わなかった。

「《空を駆け巡る翼、天駆ける力宿りし魔力、今此処に》」

 自分の奥底に輝く力に手を伸ばして、力強く引き上げる。その瞬間、背中が急激に熱を帯び、輝きはじめる。背中の皮膚を突き破るように出てきたのは一対の純白の翼。白だけども全てを拒絶する白ではない。全てを包み込む白。
 彼女が瞳を閉じれば複雑な魔法陣が床一面に広がる。それは六芒星と呼ばれるもの。
 六つの柱から放たれる細やかだけどしっかりとした光。彼女はそれに包まれると霧散して消えた。

「口で勝てないと直ぐに手を挙げますのね。最低ですこと」

「まだそんな口をきく余裕があるか!」

 若いの血色の良い肌を彩るのは紅の鮮血。それでも尚、体勢を崩さないのは彼女なりの自尊心。
 大きく振りかぶった手の平を睨み据えた瞬間、重力に逆らうように体が舞い上がる。何が起こったのか分からないまま下を見下ろせば唖然とした表情でこちらを見つめて来る兵士。
 そしてそんな自分を小脇に抱えている人物に目を見開いた。

「あ、アイリーン軍師!」

 不機嫌さを全開に呆れたような瞳で見下ろして来るアイリーンの足元には複雑な文様。その上を平然と立っている彼女の背中には――純白の羽。

「馬鹿でも無い癖にわざわざ煽った理由はなんだ」

「あ、の……えと、ごめんなさい」

「謝れなどと言った覚えは無い、理由を聞いているのだ」

 容赦の無い言葉にじわじわと目尻に涙が滲んでいく。考えなんて無い、ただ逸れてしまった兄が心配で、出来ることなら父の後を追おうとしたかった。目の前で兵士に切り伏せられた父。もうどうしたらいいのか分からなくなっていたのだ。
 次第に遠く成り行く兵士を尻目に高く高く舞い上がる。純白の翼が夜の闇を静かに彩った。

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