月光のラナンキュラス
全速力で出口へと駆け抜ける。一体エルヴィラは何処まで飛ばされたのか、と思った瞬間に火球が擦れ違うように舞い踊る。
「痛ーい……やってくれんじゃないのよー!」
剥き出しの腕に掠り傷を作ったエルヴィラは大きく頬を膨らませるとどんどん火球を投げ付ける。その灯りのお陰で敵対しているものの姿がぼんやりと浮かび上がってきた。
「……竜か?」
「うっそ、マジかよ……」
エルヴィラの火球を浴びて怒りの咆哮をあげるのは魔物の中でも最強とされている竜。縦に入った瞳孔は世話しなく動いて彼等を確認する。
「竜なら鱗の無い腹を狙うしかないが……外に引きずり出すしかないな」
「エル、出来そうか?」
「出来るよー、ただ覚悟してねー」
エルヴィラは投げ付けていた火球を収めると一気に出口に向かって走り始める。それにならって彼女の後を追い掛けるように走り始めるがテオフィールの脳裏に嫌な予感が走った。
「もしかして……」
「テオ、あたしの手を掴んで! スヴェン、エリクを!」
右手を急に掴まれたと思うと彼女は大剣を片手に崖から戸惑いもなく身を投げる。巻き込まれる形で宙を舞うテオフィールだったが悲鳴をあげるエリクの声が微かに聞こえた気がした。エルヴィラは崖へと泳ぐように近づくと大剣を大きく振りかざして壁へと突き刺す。二人の重みのせいで暫く下に落ちたが直ぐに止まった。
「えへへ、じょーでき、じょーでき」
満足げに片手で二人分の体重を支える彼女は疲れの色さえ見せない。だけどもこの状態からどうやって降りるのだろうか。彼は下を見ないようにわざと上を仰ぐとテオフィール達を追い掛けて落ちてくる竜の姿が。止まることも出来ずにテオフィール達と擦れ違い、そのまま地面へと吸い込まれていった。
「最強なのに頭は悪いわねー」
「それより俺達はどうするんだ」
宙ぶらりんの状態からの脱出を考えなかった訳ではないだろう。エルヴィラはえへへ、と笑うと握っていたテオフィールの手をぱっと放した。突如襲われる支えの無い不安感にひたすらもがく。ある程度高度は低くなったとしてもこの高さから落ちるのは死ぬ確率の方が高い。真っ白になった思考はまるで動かずに止まったまま。視界はただ映るだけ、空気を肌で感じるだけ。
その時、艶やかな紫暗の髪が視界に入る。うっすらと口許に笑みを浮かべたと思うと体勢を真っ直ぐにしてテオフィールを追い越していった。どんどん加速していく落下速度、地面まであと少しの時点だった。
「《世界を駆けめぐる風よ、全てを支える力となれ!》」
覇気のある声が響き渡る。その瞬間、ドンと言う音と共に空気が震えたような気がした。ふわりと減速していく身体、最終的にはまるでまるで羽根が生えたかのような感覚。テオフィールは地面にそっと足をつけると気が抜けたようにその場に座り込んでいた。
「……心臓に悪い」
「お、俺も」
同じ様にスヴェンと一緒に降りてきたエリクは青白い顔のままテオフィールの横に滑り込むとばたん、と倒れた。
そんな二人の状態を尻目にエルヴィラとスヴェンは頻りに辺りを気にする。先程の竜はあの高さから落ちただけでは死にはしない。それならばあの巨体を何処に隠しているのだ。
その瞬間二人が臥していた地面が急に熱を帯びる。暖かいというよりも火傷しそうな位に上昇する温度に二人は顔を見合わせると気が付いていないエルヴィラとスヴェンを突き飛ばす形でその場から逃れた。
「や、焼き肉にされるところだった……」
冗談ではない、心底そう思ったのだ。目の前で威嚇するのは怒り狂った最強の魔物――竜。鼻息荒く、息に混じって炎さえ溢れるほど。崖から落とされたことが相当ご立腹だったらしい。爬虫類独特の縦に入った瞳孔は世話しなく動き回り、彼等を確認していた。
「どーするよ、スヴェン」
「どうするもこうするも無い。こいつが親玉ならば倒すだけだろう」
「あっはは、明確な回答ありがと」
大剣を片手に構えるエルヴィラに二人も慌てて剣を構えるが微かに震える手のせいで焦点が定まらない。
「ねぇ、テオ」
「なんだよ」
片手でも決して揺らぐことの無い大剣。そんな彼女は卓越した剣士だと言うことはわかるが二人は決してそうとは言えない。まだ若く、経験の浅い剣士に過ぎない。それを知ってか知らずか、彼女の言葉は意味深だった。
「子どもはギブアップしても負けじゃないよ。大人になってギブアップしないようにすればいいの」
「え……エル?」
暗示を込めたような言葉に眉を潜めたのはテオフィールだけではなかった。だけどもその真意を問う前に彼女は鋭く地面を蹴ると怒り狂う竜の懐へと飛び込む。それを援護する形で三人は後を追い掛けた。
「炎の加護を受けた竜……きっとレイヴァス王国から来たね」
――もっと強い加護の力を求めて。そう呟いたエルヴィラの紅の瞳はいつもの人懐っこく太陽のような明るさは何処へやら、冷たい無機質な色を宿していた。
理の加護を最も強く受けるのはレイヴァス王国の王族並びに四大貴族と呼ばれる者達。だけども今では内乱でその仕組みも乱れてしまっているのが現状。まるで全ての事情を把握しているかのようにエルヴィラは竜に歩み寄った。
「アトラシアを再興する為には捨て駒も仕方がない、か」
――アトラシア、それは幻の国と呼ばれる場所。三国の名を頂いた女神達が元々いた場所とも言われている。だが、何故彼女がアトラシアを再興させようとしたのか、その理由が分かるのはかなり先の事である。
エルヴィラは大剣を突き刺して両手で印を組むと深呼吸をした。
「《我、神の頂を守る者として生ある者に終わりを告げる。一つの灯火消える時、汝の灯火共に吹き消さん》」
じっと様子を伺っていた竜の体が微かにぶれる。それは肉体と魂が一瞬離れた証拠。エルヴィラは満足そうに笑みを浮かべると地面から大剣を抜き、低く構えた。竜は威嚇するように背中の飾りのような羽を忙しなく動かしながら体を微かにだが宙に浮かせていた。
「エル! ……先に行くなといつも言っているだろう」
息を切らせても尚剣先はぶれないスヴェンを視界の端に捉えると彼女はにやりと笑う。その後ろにはあの兄弟の気配も感じる。
――役者は揃った。
「スヴェン、何があってもテオ達を守ってね」
「……お前がそう言うのなら」
その言葉を耳にして笑みを浮かべる。この人は絶対に約束を違えないし、違えられない。エルヴィラが為そうとしていることは既に成功しているも同然だった。
「なら、安心だね!」
快活に言い放つと強く地面を蹴る。高らかに飛び上がった彼女は大きく振りかぶった大剣を叩きつける。剣を振るいながら自分の中で二つの心がぶつかり合うのを感じた。
一つはエルヴィラ個人としての生き方、テオフィールに告げた言葉は彼女の心からの言葉。だけどももう一つの心は故郷を再興しようとする目的の為には手段を選ばない氷の様に冷たい心。今は個人としての心が彼女の体を強く突き動かしていた。自分でも冷たいと思う心を強く嫌悪しながら――。
「テオ、駄目!!」
次第に攻撃の衝撃によって宙に浮きながら天を仰ぎはじめた竜の腹の下へと潜り込もうとする姿に思わず叫ぶ。今入っても仰向けに倒すにはまだ時間が掛かるし、羽の動きが止まって地面へ倒れる可能性もある。既に頭に血が上っている彼の意識はこんな簡単なことでも理解する事を鈍らせている。エルヴィラは竜の背筋に何度も剣をぶつけながら唇を噛み締めるしかなかった。戦いに慣れている剣士だとしても全力で何度も鱗を切り続けるのは体力的に辛い。痺れてきた掌に叱咤しながら大剣を強く握り直す。
「エルヴィラ……約束果たすぞ!」
叫ぶスヴェンの声に彼女は微かに笑みを浮かべた。いつもの不敵で心の奥底も垣間見る事は叶わない笑いでは無く、安堵したかのような表情。
(心って複雑ね……)
互いにひしめき合う感情。それは簡単には操作できない。長い傭兵の経験でこんなにも感情に苦しめられたのは初めてだった。勿論、本来の自分が接触しなければいけない相手とであったのだから尚更である。
スヴェンはすれ違い様にエリクの手元から剣を取ると巨大な剣を両手にして思いっきり竜の顔面を下段から上段へと切り上げた。一つの剣ならば刃零れが起きるだけだが二つあれば衝撃だけで竜を動かすことは可能だ。だが竜は大きく仰け反る体勢を戻そうと両足をばたつかせる。遠慮なしに動く動作を予測することもできず地面にいたテオフィールは防御も儘ならないまま巨大な足に蹴られた。
「あ、兄貴!!」
それまでスヴェンに剣を取られて呆然としていたエリクがテオフィールを追い掛けて飛び出す。この勢いで降りてきた壁にぶつかれば大怪我ではすまない、況してや竜に蹴られているのだから。エルヴィラ達の助けを待つよりも自分が動かなければならない。
「頼むよ……追い付いてくれ!」
重くなってくる足に荒くなる呼吸。考える余裕さえなくなっていく頭に頼ることもなく、体は自然と為すべき事をしていた。
地面に激突する寸前のテオフィールの体の下に滑り込んで受ける筈の衝撃を一身に引き受ける。暫く頭から地面を滑って勢いを止めたのはいいが背中に感じるテオフィールはぴくりとも動かなかった。体を起こせばずるりと兄の体が地面へと横たわる。まるで人形のような姿に背筋に冷たい物が流れた。
「あ、兄……」
「エリク、離れてちょうだい」
はっと顔を上げると其処には体中血まみれになったエルヴィラ。その背景に見える竜は天を仰いだまま動かない――死んだのだろうか。一人では立っていられないのかその体はスヴェンによって辛うじて支えられている。あの余裕は何処へやら顔色は蒼白に近い。そんな彼女を優しくテオフィールの隣に座らせるとスヴェンはエリクの腕を掴み、無理矢理テオフィールから引きはがす。その手を振り払うように腕を振り回すとエリクは何時になく怒りに満ちた表情で彼の胸倉を掴んだ。
「何であんな事したんだよッ!!」
「勝利の為に犠牲は付き物だろう、だが良かったな。エルヴィラの魔法の才は何処の誰よりも抜きん出ている」
顔だけを傷だらけの二人に向ければ穏やかな表情で傷口に手を当てて目を閉じるエルヴィラの姿。陽気ないつもの彼女は消え、慈母の様な笑みが微かに浮かんでいた。
(まだ……大丈夫、起きて)
暗闇でうっすらと現れるテオフィールの姿。両足を抱えて不安そうに此方を見つめている。そしてその後には見覚えのある人物、テオフィールと容姿の似た女性が立っていた。
(駄目だ、できない)
(何故? 自分が思っていることや感じてること、言って)
(怖いんだ)
率直に吐かれる弱音。今にも泣き出しそうなその表情をじっと見つめながら自分の中の灯火が消えつつあるのを感じる。竜に下敷きにされた時に内蔵がやられたらしい。生身の人間である今、無傷で居られるとは勿論思っていなかったけれど――。
(本当に生きて傭兵を続けて行けるか)
死と隣り合わせの仕事だと承知して始めたけれど大きな怪我をして初めて怖いと感じた。物事を為す前の恐怖とはまた違う、経験したから湧き上がる恐怖。それは思い出す度に体に受けた衝撃を思い出す、傷とはそういうものだ。
(テオ、君を守ってくれる人は沢山いる)
――例えば、君の後ろにいる彼女だってきっと目的を果たすまでは守ってくれる。口には出さなかったけれど、いつかはわかる時が来る。
(言ったでしょ? 強がらないで、誇りを忘れた傭兵にならないで、ね)
顔をあげたテオフィールは静かに頷く。そっと手を差し出せば素直に握ってきた。身体中の神経をただ一つの事に集中させる。やるべき事は此処――生死の狭間からテオフィールを逃がすこと。紫を帯びた光が彼を包み込んだときには姿は無くなっていた。
『人間になって目的を忘れたわけではないだろう?』
(くくく……全く生きている時は人間だと主張していた癖に今頃になってそれ?)
『あぁ、弁解はしないさ。……無駄だからな』
(私の身体は駄目みたいだよ……後は任せるよ、レイ)
『あぁ、お休み……ジークフリード』
消えたテオフィールを追い掛けて女性――レイが挟間から姿を消す。体を貫く痛みと抗うことの出来ない眠気の波に飲まれた時、彼女の中で煌々と燃えていた灯火が闇に溶けて消えた。
「……き、兄貴!」
震える聞きなれた声にうっすらと瞳を開ける。認識できたのは今にも泣き出しそうなエリクの顔とテオフィールの額に手を当てるスヴェン。
「あ……俺」
「打撲に骨折が数ヵ所あるが命は取りとめた……奇跡だな」
起き上がろうとすれば全身に鈍い痛みが走る。無理矢理体を起こすと左手が誰かの手と繋がっていた。
「エル」
掌に包まれた彼女の手は冷たく、異様に白い。暗闇に包まれたあの場所で別れを告げるような彼女の言葉が蘇る。
『強がらないで、誇りを忘れた傭兵にならないで、ね』
まるで遺言の様で――。
「うわああああ!!」
悲鳴のような悲痛な声が深い森の中に木霊した。
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月光に照らされた花飾りが煌めく。いつの間にか日付が変わったことを告げる鐘が辺りに響いている。どうやら長いこと話し込んでしまったらしい。傍らで眠るイーナの頬は泣いたのだろうか、白い筋が跡を残していた。
エルヴィラの言葉を忘れた日は一度もない。だけどもあの日、スヴェンが犠牲を出さないような選択をしていれば誰も悲しまなかったと言い張るエリクは未だに彼を許していないようだ。テオフィール自身、何も言及しないだけに殆どエリクの言いたい放題になっている。だけども一度もスヴェンを恨んだことはない。自分の無茶な行いが犠牲を呼んだと知っているから。だから誰も責める権利はない。
『強がらないで、誇りを忘れた傭兵にならないで、ね』
「俺、皆に支えられてる。誇り高い王になるよ」
――何処かで君が見守ってくれてると信じてる。
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