光のラナンキュラス

Act.9 街中のセレナーデ


 煌びやかな装飾をただぼんやりと見つめてみる。ここ数日で様々な事が有りすぎて頭が着いていかない。只の任務の一つとして終わる筈だったのにどうしてこんなにも人の事に巻き込まれているのだろう。だけどもどうしても見捨てることが出来なかった。萌葱色の瞳が横で眠り続ける金糸の少女に向けられる。そんなことも露知らず、彼女の寝息が響き渡る。彼――エリクはそっと静かに立ち上がると窓際に腰掛ける。真っ白な鳩が彼の姿に驚いて懸命に羽を羽ばたかせる姿にそっと視線を逸らした。こんなにも平和な筈なのに何故あんなにも魔物が蔓延ってしまっているのだろう。もしかしたら故郷もそうかもしれないと思うと胸が痛んだ。

「う……」

 暫く聞かなかった声に思わず歩み寄る。必死に覚醒しようと瞼の下で瞳が忙しなく動く。エリクがそっと肩を揺すれば猩々緋の瞳が顔を出した。

「私、……此処は?」

「アルディード城の中だ。兄貴達に知らせてくる!」

 慌てて部屋を飛び出していく彼を見つめてぼんやりと痛む腹に手を当てる。自分の力を制御しきれなくてテオフィールに気絶させられたんだと思い出す。気を失う前に彼が囁いた言葉がはっきり耳の奥で響いている。

『安心して眠れ』

 魔物達の自由を奪っている時にはっきりと眼にした。飛び交う鮮血、まるで人形の様に宙を舞う肉体。怖くて、見たくなかったけれど眼を離してしまえば術は解けてしまう。そうした葛藤の中で力が独りでに暴走したのだろう。体を起こして高い天井を見上げる。普通の民家では無いと直感的に感じながら窓の外に目を向けた。鮮やかな暁色が空を染めている。柔らかい日差しが彼女を静かに照らしていた。



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「まさか、其処まで及んでいようとは……」

 苦々しく呟く姿はアルディード帝国第15代皇帝 ベネディクトゥス・ヴォルフ・フォン・アルムホルト・アルディード。勇ましい風貌とは裏腹に知略に長けた賢帝と称されており、フィリーネの叔父にあたる。つまり、彼女の母親と現皇帝は兄妹ということになる。

「このままにしておけば国境全体を魔物に制圧されてしまいます。付近の村などには対抗できる術はありません」

「原因は分かっておるのだ。四大貴族の一つが没落、王族の根絶やし。あちらの国のバランスを取る筈のものが消えてしまったのだからな」

 崩壊は無理も無いと呟く皇帝を前にフィリーネは唇を噛み締める。崩れ行く王国の巻き添えを食らって滅びるなど言語道断。せめて自国の民を守りきらねば大陸に未来は無い。
 すると皇帝はふと思い出したように呟いた。

「……あの噂はどうなっておる」

 跪く彼女ははっと顔を上げる。何処からともなく聞こえてくるレイヴァス王子生存の噂。もし生きているとすれば野放しにされている力を統括する事が出来る。

「内部に入り込む以外に証拠を得る方法は御座いませぬ」

「ならばお前が拾ってきた娘、使えそうではないか?」

 え、と漆黒の瞳を見開けば真剣な顔をしてこちらを見つめてくる叔父の姿。だがもう叔父では無く、皇帝の顔をしていた。彼女――イーナがわざわざ危険を冒してレイヴァス王国に行く意味は何だ。故郷だからか、だけども魔道士の娘だとしたらその家族はあの悲劇によって失われているかも知れない。そこまで考えてふと思う、何故私はあの子の心配をしているのだろう、と。

「精霊魔術の使い手であり、時を凍らせて動かすことのできる少女。それだけの力があるならば王家との関わりは何処かにあるはず。それはお前も同じだろう?」

 アルディード皇家の血を半分継ぐ者だけれども今の皇帝ベネディクトゥスには子がいない。そうなると現在の皇帝の妹の子であるフィリーネがその能力を強く受け継いでいる。力とは如何に正当な血を継いでいるかによって強さが決まる。それがアルディード帝国を治めるという皇の力なのである。

「ご命令とあらば騎士として拝命いたします」

 危険と分かっていても国の利益に動くのが騎士であり、民を守る駒となる。それを宿命として臣に成り下がったのだ。躊躇は無い、筈だった。

「お前の任務は傭兵達と共にレイヴァス王子の噂を突き止め、魔物の被害の理由を解明し阻止しろ」

「御意」

 一礼して背を向けるフィリーネは外套を翻して軽やかになびかせる。颯爽と階段を駆け降りてそのまま滑るように段差に腰かけた。命令を受けたは良いが自分自身もう共に仕事をすることは無いだろうと予測していた兄弟と共に行かなくてはならない。更には経験の無いイーナまでも連れて行かなくてはいけないのは彼女にとっては負担である。

「戻っていたのか」

 階段をゆっくりと上ってくるのは任務の前に会ったスヴェンの姿。帯刀していない様子から任務ではなかったのだろう。いつものように柔らかく微笑む彼の姿に漸くほっと出来た気がした。

「えぇ、つい先程ですが」

 そうか、と呟く彼はそっとフィリーネの横に腰を下ろす。ふと花の香りが鼻を擽る。

「この香りは……百合?」

「当たり。屋敷で咲いたから見に来いって母上に言われてね。お陰で僕は花粉まみれさ」

 鼻を啜って見せるスヴェンにくすりと笑う。
 嘗て過ごしたような暖かな家庭は直ぐ近くにあるというのに寄り付かないのは自分の意思。帰ってしまえば嫌な劣等感や束縛を感じてしまうから。目を伏せて思いに更ける彼女の頬に何かが掠めていく。視線を上げればいつの間にか鼻先にスヴェンの顔が迫っている。思わず顔を赤らめて身を引けば、伸ばされていた掌とぶつかった。

「団長……?」

「いつかね、君に百合を見に来て欲しいんだ」

 真剣な目付きで見つめる瞳から視線が外せなくなっていた。頬を大きな掌で包まれていてはどうにも動くことは出来ない。
 ただ、胸の鼓動が何処か焦っているように感じた。
 受け入れてはならない。
 踏み込んではならない。
 魂が叫び声をあげていた。

「フィリーネ! イーナが起きた……ぞ」

 駆け込んできた足を思わず止めた。広がっていた光景は座り込んでいた彼女を壁に押し付ける男の姿。その人物は紛れもなく、自分の記憶の中にいた。見間違えようもない、初めて共に仕事をした近衛騎士。

「やぁ、エリク……久しぶりだね」

 銀鼠の瞳を細めて笑顔を作る様子は昔と変わっていない。ただ違ったのは顔を背けたまま動かないフィリーネ。不敵に微笑むスヴェンを憎むよりも頭まで脈打つ動悸を押さえようと必死だった。

「兄貴は元気か?」

「うるせぇよ」

 冷たい萌葱の瞳で彼を見下ろすエリクの姿にサラサでの記憶が蘇る。でも怒りではなく、侮蔑にも似た視線に怖くてまともに目を向けることが出来なかった。

「うるさいとは酷いね。共に仕事をした仲じゃないか」

「分からねぇなら、自分の胸に聞いてみな!」

 それでも笑みを浮かべたままのスヴェンにこれ以上何を言っても無駄だと覚ったのかエリクは踵返すとそのままもと来た道を走っていった。

「ふふふ……変わらないな」

「貴方は、変わりました」

 きっと彼を睨み付けるフィリーネの頭は既に冷静さを取り戻していた。素早く彼の腕から逃れると再び手を伸ばすスヴェンの手を叩く。

「どうしたんだ。君らしくもない」

「私らしくない? 貴方は私を支えているつもりで陛下の後継者としてしか見ていない、本当の私を知らない!」

 いつも側に居てくれた上官に対して酷い言葉だとは思う。だけでも心の中で絡まる糸を解そうとする余り、自分でも理解できない怒りをぶつけていた。

「僕は本気だよ?」

 そういった彼の表情からは笑みが消えて、ただ顔を向けている。まるで今まで知らない人を見ているような錯覚を覚えたが彼女は構わず、エリクの後を追い掛けた。纏っている白の外套が邪魔くさい。走りながら結び目をほどこうとするものの中々うまくいかない。爪を立てて漸く取れた外套を丸めて抱えながら辺りを見回した。エリクが走り去ってまだ数分しか経っていないのに辺りはいつものような静寂を保っている。強く打つ胸を押さえながらその場に蹲った。

(―――何故、踏み込んではならないと思ったの?)

 ゆっくりと立ち上がって深呼吸をする。爽やかな風に肺を満たしながらそっと窓辺に歩み寄った。外は何も変わらず、私は変わってしまった。どうしたらあの頃に戻れるのだろう。

「あ、いたいた。ほら早くってば!」

 振り返ると其処には至って元気な様子のイーナと腕を引かれるエリクの姿。少し違う風に見えたのは服装のせいかもしれない。紺のジャケットでは無く普段着を纏うエリクはどうも罰が悪そうにしているがイーナにせっつかれる。

「悪いって思ったなら謝らなきゃダメ! だから一緒に来たんでしょ?」

 イーナも着替えたばかりらしく、胸元のリボンが腕を振る度に揺れた。だが、言葉に迷うエリクが口を開いた瞬間、それを否定するようにフィリーネが先に言葉を放つ。

「悪かったわ、二人を困らせたのは私だ。謝る必要は無い」

 驚いた表情を見せる二人にフィリーネは首を振る。私事に捕らわれて、感情に振り回されたのは自分自身。そのけじめはきっちりと付けなくてはならない。

「でも……」

「誤解だけは解いておく。団長とは何も無い」

 ぴしゃりと有無を言わさずに言い放ったフィリーネにイーナは何処か嬉しそうに頷いてエリクに向き直る。

「これで万事オッケー、だよね?」

「あぁ、ありがとよ」

 二人は互いに片手を叩くと急に思い出したかのように何かを探し出す。落ち着きの無い二人がよく此処まで仲良くなれるものかと内心息を吐きながら様子を静かに見守っているとエリクが袋を取り出し、彼女に向かって突き付ける。

「女官がお前にだとさ」

 差し出された袋を受け取って恐る恐る見てみると其処にはきちんと折り畳まれた衣服。何処かで見たようなデザインは紛れもなく自分の私物。

「何かあるのか? 俺も兄貴、イーナまで新しく新調した服貰ったし」

 身長も体格もまるで完全に調べられたかのように合ったものに裏で何かが動いているのかと疑いたくなる。既にベネディクトゥスは彼女と三人をレイヴァス王国に送る計画をしていたかのようにも感じられる。その事に戸惑いながらもエリクとイーナに真実を話した。

「確かに陛下から四人で任務につけと言われたの」

「四人って……わ、私も!?」

 自分が計算に入っているなんて思わなかったと驚くのは無理もない。一般人である彼女を連れていく理由はただ一つ。レイヴァスの関係者であるが故。死の国とも言われる程危険な場所を生き残るにはそれなりの覚悟が必要である。それを喚起させる為にも恐ろしい場所だと言うことを知らせておかねばならない。

「私達はこれからレイヴァス王国に向かうわ。生きて戻れるか、どうなってしまうかは分からない。それだけは覚えておいて」

 その言葉に凄まじいまでの重みを感じる。押し黙るエリクとは対照的にイーナはふと微笑むと胸元の首飾りを両手に包み込んだ。

「テオには……もう言ったの?」

「あれからまだ会っていないから多分傭兵の仲介所にいると思う」

 ならば街に降りて探しましょう、と意気揚々に言うイーナにエリクが慌てて制す。

「まだフィリーネが着替えてないだろ? 俺、先に行ってるよ」

 確かにこの騎士の装束のままでは身分がばれてしまって動きにくい。普通の服に慣れるのなら恐らく今のうちだろう。私室が集まる塔へと歩いていく二人にエリクは内心汗を拭いながら階段の手摺に腰掛ける。きっと今行けば再会を邪魔してしまう。二人の時間くらいゆっくり取らせてやりたい。生と死の壁を隔てた二人。廻り会えるのはきっと同じ姿でいられないだろう。世界の何処かで擦れ違っても見つけることが出来ないかもしれない。

 ――素直に悲しかった。

 平らな大地に大きく根を張る巨大な木。その元にあるのは数々の墓石。人々が生まれて出会い、死んで別れるまでにどのような人生があったのかは分からない。だけども生きていた証として遺すのが墓石。その正面に立ち尽くしていたテオフィールは泥で汚れた墓石を撫でると刻まれていた名前をじっと見つめていた。

「エル……帰ってきたぞ」

 そっと跪くと携えていた花を手向ける。
 白く儚い霞草が風に揺れた。波打つ草原の波は見事に色を変えていく。彼は青碧の瞳を閉じるとじっと黙り込んでいた。このままこうしていたら彼女が目の前に立っているかもしれないと考えてしまう。もう戻ってくることはないと頭では分かっていてもいつまでも手を伸ばせば触れられそうな感覚を忘れることが出来ない。複雑に絡み合う想いを押し込めて彼はそっと立ち上がり別れを告げた。
 一歩墓地を出ればそこは賑やかな通りに面する。近くには歌神アルディードを祀る教会や住宅街。湖近くまで足を伸ばせば直ぐに傭兵達の家が見えてくる。殆どの傭兵は地方から出稼ぎに来るものや名の知れ渡るような傭兵に憧れて職に就くものが多く、国が全面的に支援していることもあって住む場所だけは安定している。彼は何処にも寄らずに真っ直ぐ家へと入る。帯刀していた剣を外し中に入ろうとした瞬間、賑やかな声に眉を潜めた。

「やっと戻ってきた!」

 勢いよく腕に絡み付くイーナは見て見て、とくるりと回りながら格好を決めて見せる。淡い桃色のリボンが胸元を飾り、動きやすそうなショートパンツが彼女らしい。唖然とするテオフィールに不敵に笑みを浮かべたフィリーネがそっと紅茶を啜る。見れば彼女も騎士服では無く、流れの旅人の様な服装に髪は簡単に結ってあるだけ。

「なんだ、座らないのか? この紅茶は中々いける」

「何故勢揃いしてるんだ。やっと任務から解放されたのに」

 ぼそりと呟く彼に誰も真剣には取らない。思い思いに寛ぐ二人に頭を抱えていると奥からエリクが顔を出す。

「兄貴、来て」

 げんなりとした表情に思わず吹き出しそうにしているエリクの顔を蹴り飛ばしてやりたいと内心思いながら腰をあげた。

「仲介所に行った?」

「いや……エルヴィラの墓参りをして戻ってきただけだ」

 やっぱり、と頷くエリクは真剣な表情を浮かべるとふと外を見る。

「エルヴィラが死んで何年経つと思ってるんだよ。もうそろそろ周りに目を向けてみろよ」

「お前に言われる筋合いは無い」

 冷たい光を宿して細める瞳に思わず白旗を振りたくなるがぐっと堪えた。

「墓参りを止めろとは言わない。今はそれだけは言っておく」

 何も言わないテオフィールの態度を了解と取ったのかエリクもそれ以上何も言わなかった。
 珍しい紫暗の髪と物腰柔らかだけど自分の意見をはっきりと持った女性。その残像は確かに脳裏に焼き付いて離れない。あの無惨な死に方さえなければと何度思っただろうか。彼は悔やむ思いを振り払うとすっと大きく息を吸い込んだ。

「仲介所に行くぞ」

 正直言えば行きたくはない。あの猫目の男を見る度に思い出すことがある。思えば墓参りをする習慣も全て傭兵となったことから始まったのかもしれない。手早く上着を掴んだテオフィールは逃げ出すように家を出る。それを追いかけるようにエリクは二人に付いてくるように合図を送った。

「ねぇねぇ、仲介所ってどんな所?」

 外套を身に付けて後を追いかけてくるイーナの顔は緩みっぱなしで辺りを見回す瞳は爛々と輝いている。それとは対照的に擦れ違う人々を細かに観察しているフィリーネが並んで横を歩く。

「エリク、聞いてる?」

「勿論。でも聞くより見た方が早いと思うぜ」

 そう言って顔を上げるエリクに促されて前を見る。其処には巨大な建物の姿。煉瓦で丁寧に立てられたそれは質素ながらも圧倒的な気迫を放って見える。そんな場所の扉を躊躇無く開け放つエリクは彼女に入る様に促す。恐る恐る足を踏み入れば其処は酒場みたいな構造をしており、多くの傭兵達が会話している。横を擦り抜けていくテオフィールの後ろを追いかけた。

「離れるない方がいいわ、迷うから」

 そう囁いたフィリーネに頷いて辺りを見回す。よくよく見れば建物の中も複雑に入り組んでおりまるで迷路の様だ。国が抱える傭兵の数はかなり多い。それらを一人一人管理している人々の人数も同じくらい多いという事である。

「傭兵は王国の人口の約二割程度が登録されている。それらの情報を統合しているのがこの場所、【レクシスト】よ。まぁ、王のものと言う意味を込めて付けられたものだ」

 流石に詳しいフィリーネに素直に頷いてみせる。擦れ違う傭兵達は兄弟と同じ様な紺の上着を身に纏っている。それが傭兵としての正式な服装だと呟いたテオフィールに彼女はそっか、と答える。
 ぼんやりしていた彼もやっと我に返ったらしい。彼は何やら台の前に立つと中指にはめていた紅の指輪を翳す。すると何やら紐状の淡い光がそれに絡み付き、青碧色の光を放ってすっと消えた。

「エリク」

「はいよっと」

 テオフィールに促されたエリクも同じように翳せば光は同じように彼の大きな指に絡みつく。まるで生き物の様に見えるそれは緑色の光を放ちながらすっと消える。

「今のは?」

「傭兵管理システムよ。一人一人の指輪に個人情報を組み込んであるから光がそれを読み取るの」

 サラサの村に居た自分がいかに世の中を知らなかったのか痛感する。ぼんやりとシステムを見つめるイーナに階段の上から声が降りかかった。

「よう、嬢ちゃん。此処は君が来る所じゃないぜ」

 金の猫眼をした男はそう言うとゆっくりと階段を下りてくる。短く切りそろえられた短髪は男の冷たさを助長させて見えた。

「悪いな、クロード。俺の連れだ」

 全く言い返さない彼女が猫眼の男――クロードに抱いた印象をテオフィールには勿論手に取る様に分かっていた。

「この人、怖い」

 その言葉にクロードはがっくりと肩を落とす。彼に会う誰もが抱く印象はこれだ。勿論クロードも気にしない様に努めているもののやはり目の前で感想を述べられるのは辛いものがある。

「くっ! 嬢ちゃん、俺様を前にしてまとも言うなんて怖いもの知らずだな」

 気に入ったぜと大口を開けて笑うクロードにフィリーネは呆れたように肩を竦める。そんな彼女を宥めるのをエリクに任せ、テオフィールは椅子に腰掛けて軽く肘をつく。

「新しい任務は」

「あぁ、さっき入ってきたばっかりのやつか」

 ちょっと待ってろ、と言って山のように積み上げられた書類の中から一枚の高級紙を取り出して彼に渡す。押してある判も紙質も国から下された命令だと言うことを証明している。そして文章に目を通したテオフィールはぽつりと呟いた。

「レイヴァス王国だと?」

 話もせずに来てしまったとフィリーネはさり気なく口元を押さえた。何処か話しかけづらい雰囲気を出していたテオフィールに伝える機会を失ってしまっていたのだ。だけどもエリクはただ笑いながら書類に眼を通していく。その後で見えないよ、と藻掻くイーナに書類を半分見せれば彼女はまるで子どものように眼を輝かせた。

「船だよ! 凄い!」

 歓声を上げるイーナにクロードは満足そうに頷いて見せた。たかが隣国に足を踏み入れるのに船を一隻使うなんて誰が想像するだろう。それも国が支援をしているからこそ出来ることである。

「でも船は目立ちすぎると思うけど」

「確かに君みたいな女傑なら歩いて入国できるが皇帝陛下の命令は帰還することも視野に入っているからな」

 万端な準備をして送り出したいんだろう、と突き刺すような視線を向けるクロードにきつく睨み返す。その視線が何か言いたげであったがフィリーネはそれを無視して書類を覗き込んだ。

「それに、嬢ちゃんは大切な魔道士だ。此方とてそう簡単に失うわけにはいかないからな」

 驚いたように挙動不審になるイーナは不安そうにテオフィールを見上げるが彼は首を振って心配はいらないと示す。

「こいつの耳は地獄耳より質が悪い」

「俺様の情報網を舐めて掛かれば痛い目に合うぜ?」

 嫌みを言ったつもりなのに自慢気にふんぞり返るクロードに呆れた顔をして見せるテオフィールはイーナに向き直った。

「本当に行くか?」

 退くなら今しかないのは分かっている。だけどもあの場所には自分が知らない自分がいるのは確か。彼女は今までの自分に見切りをつけた、あの村に戻れるとは分かっていてもこのままでは自分を知ることは出来ない。だから――。

「私、行きたい」

 足手まといになって迷惑になるのも分かっている。だけで、命を懸けて向かう理由がある。もしかしたら、両親がいるかもしれないという淡い希望を抱えながら彼女は強く拳を握りしめる。それを支えるように見つめる優しい瞳があった。

「大丈夫、私達が貴方を守る」

 サラサから帰還する時の厳しさは何処へやら、穏やかな表情を浮かべてイーナの肩に手を添えるフィリーネの手は温かかった。テオフィールはもう決定済みか、と呆れたように呟いたが反論することは無い。
 イーナが願うことはただ一つ。自分の存在理由を見い出せますように。曖昧だった自分自身を探し出す最初で最後の手段なのだから。

「覚悟が決まったなら行ってこい、幸運を祈ってる」

 漸く不敵な笑みから快活な笑顔に変わったクロードは巨大な袋をテオフィールに胸に押し付ける。

「前回の報酬だ、身分がばれないように気を付けろ。あくまで迷い込んだ旅人を装え」

 短く了解の意を示す彼にエリクは素直じゃないなと頭を掻く。早々に背を向けたテオフィールを嬉々として追い掛けるイーナとゆっくりと歩き出すエリクを眺めた。

「変わったな」

 そう呟くクロードにフィリーネは無表情にただ頷いた。もうあの頃のような人形では無い、闇を知り、闇を知ったからこそ強くなれた。昔の未熟さも、暗闇を歩いている気分も今は無い。きっと今回ならば上手くできる、そう信じて外套を翻し、颯爽と歩き去る彼女はただ真っ直ぐ前を見据えていた。


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