月光のラナンキュラス
Act.13 それぞれの想い
夜空のキャンバスに光輝く星が散った。手元をほんのりと照らす程の明るさは心地良い。この優しい闇が苦痛も悩みも覆い隠してくれればどんなによかっただろう。だが、何(いづ)れは日の当たる場所に出てしまう嫌な部分。それは決して消えることはない。
「テオフィール様……どうなさったんでしょう」
ぽつりと呟いたクレアは心配そうに潮風に吹かれる彼の姿を見つめる。誰もが眠れぬ夜を過ごす中、最も思い悩んでいるのはあの二人だろう。階段に腰を下ろして外套を体に巻き付けたフィリーネは何も答えぬまま、空を見上げた。
「お話してきた方が良いのかな……」
「今は放っておいてやれ」
眉尻を下げたクレアに溜め息を吐く。元気付けたいのは分かる、フィリーネだって思い悩んでいる仲間を見るより笑っている方が居心地が良い、だけど――。
「一体二人にどう居て欲しいんだ。笑ってれば良いのか? 喜んでいれば良いのか?」
「ただ、私は……」
王子と言う身分を直ぐに理解してもらえると思っていた、でもそれは違う。人にはそれまで生きてきた人生があってそれは簡単に覆せるものではないのだ。況してや生まれ故郷の記憶がない中で自分の存在が揺らいだ時、誰も素直に喜ぶことは出来ないだろう。
「私は……分からないです」
「ならば、ほっといてやれ」
フィリーネの言葉にそうではなくて、と呟いたクレアはふと遠くを見つめた。あの日も確か夜空が美しい日だった。真っ新な記憶、戸惑う心、消えた人格、もう戻ってこない。
「私が分からないのはそれまでに生きてきた……確立してきた自分自身。私はカイザーに助けられてから自分を探してます」
「お前……記憶がないのか」
そっと頷いたクレアに罰が悪そうにすまない、と呟けば彼女はにっこりと微笑んだ。自分を心の底から愛し、見守り続けてくれる存在にどれだけ恋い焦がれただろうか。何もかも失ったクレアにはそれまで生きてきたという存在価値を見い出すことが出来ない。
それは彼女にとって未知の世界。
「私には精霊魔法の恩恵がある……だからブリガンティアに属し、国の発展のために戦う。テオフィール様が王子であらせるならば私はついていきます」
レイヴァス王国出身の能力者にしか出来ない魔術は出自を証明することが出来る。同じ様にアルディード帝国ならば王族に聖歌魔術、島国フィーリ王国では女王とその継承者のみに受け継がれる祈祷魔術がそれに値する。勿論、自分を知るには二つの国よりは枠は広いけれども――。
「お前の覚悟……敬意を表するわ」
フィリーネは優しくクレアに語りかけて視線を戻した。目の前に佇む彼が術者であるならばどうして今まで感じることが出来なかったのだろうか。彼女は立ち上がると見上げるクレアに挨拶をして部屋へと足を向けた。船員も此方をあまり気にしないので比較的落ち着く。だが、扉を開いて辺りを見回すと一緒に部屋を使う筈だったイーナの姿を思い浮かべてしまう。
「覚悟がないのは私……」
自分のあるべき場所へ――それは自分には既に失われた場所であり、自ら捨てた場所。そこに今一度戻ろうとは考えられない。だけど、いざとなった時自分はやはり思ってもみない行動に出るのだろう。皇帝の年齢を考えてみればそんなに猶予が無いのは分かっている。
「フィリーネ」
扉越しに聞こえる声にはっと顔を上げる。開け放たれたままの扉に立っていたのは甲板にいた筈のテオフィール。感情の分かり難い表情はいつものことなのに何故か今だけは手に取るように分かる気がした。
「入ったらどうだ」
その言葉に頷いたテオフィールは口を閉ざしたまま。様々な思いが巡るなかで言葉を探す方が大変だな、と思う。
「俺は……何をすれば良いんだろうか」
故郷に帰って父親――養父に話を聞かなくてはいけないのは分かっている。だけどもきっと目の前にしたら言葉は上手く出てこないだろう。きっと正しい言葉は「何をしたら良いか」では無く、「何を言ったら良いか」だろう。彼の言葉に眉を下げるフィリーネに答えは出ないだろうなと悟っていたが彼女の言葉が聞きたかった。
「思うままにやってみたらどうだ?」
「俺は……――」
「知りたいよ、兄貴」
一瞬止まって考えそうになったテオフィールの背を優しく押したのは一つの言葉。振り返れば自信に満ちた表情を浮かべるエリクの姿がそこにあった。彼はテオフィールの隣に歩み寄ると両腕を組む。そんな弟の姿に彼は口元に笑みを浮かべると自分とよく似た強い光を宿す萌葱の瞳を見つめた。
「奇遇だな、俺もだ」
「ならば迷う必要は今は無いでしょう? その……ヴィルヘルム殿の口から真実を聞き出さないことには選ぶ選択肢は無いからな」
問題解決だ、と微笑んだフィリーネに礼を言うとそのままテオフィールはエリクの背を押して部屋に戻る。入って間もないのに乱雑に放置された部屋はエリクの悩んだ跡だろう。呆れたように自分が座る場所を確保するとふと息を吐いた。
「すっきりした?」
立ったまま問い掛けるエリクに彼は口元に笑みを浮かべながら頷く。やりたい事をやらないで後悔するよりもやりたい事を好きなだけやって納得したい、それが自分の素直な気持ち。後悔しないように慎重になるのも大切だが、慎重になりすぎて大切なことを忘れていた気がする。
「親父……何で言ってくれなかったんだろうな」
「分からない」
悔しかったのだろうか、悲しかったのだろうか。複雑な胸中であっただろう父――もうそう呼んではいけないのかもしれないヴィルヘルムは故郷を逃げ出しケテルの街に辿り着いた。それは奇跡でもあり、既に過去でもある。テオフィールは優しく煌めく青碧の瞳を彼方に映る大陸に向けた。
「真実がどうあれ、俺達が親と呼べる人は変わらない」
――だから、知りたいんだ。
そう呟いたテオフィールは乱雑に広がる衣類に埋もれた寝台に身を投げた。直ぐ様寝息を立てる兄にふと笑みを浮かべるがそれは直ぐに消えた。どうしようもない不安感がエリクに警告するように鳴り響いている。幼い頃の記憶なんて無いのに脳裏では人々の怒号や泣き叫ぶ声が一斉に喚き始める。もし、自分達が王子だとしても何が出来るのだろう。使えない魔法、残っていないレイヴァス王国の記憶、覇者たる風格。全て自分達には無い。
「未来が見えないよ」
そうテオフィールに助けを求めるように呟くが反応を示さない彼の姿にエリクはそっと部屋を出た。揺れるだけの船内より甲板に出た方が落ち着くかもしれないと思いながら足を進める。変わらぬ強い潮風に髪が拐われた。
「眠らないの? エリク様」
甲板に出てぼんやりと空を見上げるエリクに横からクレアはそっと笑い掛ける。フィリーネに考える時間を与えた方が良いと示唆されたものの、複雑な表情を浮かべる彼に声を掛けずにはいられなかったのだ。
「眠りたいんだけどな……なんだろう」
そう呟くエリクは無理矢理笑う。
「なら、面白いお話でもしましょうか……そうですね、“ブリガンティア”の意味はご存じですか?」
不意に問い掛けるクレアに首を傾げるエリク。嘗てレイヴァス王に反旗を翻した者達それを率いていた女性達が救いの女神――ブリガンティア。もしも迷っているのなら自分達の受け継いできた物語が参考になれば良いと思う。ただ、そうなる事を祈って彼女は語りだした。
「“ブリガンティア”の意味は“救いの女神”。古の時代に生きた女神様達を指す言葉です」
「あぁ、聞いたことがあるな」
戦いを治めて平和をもたらしたことからそう呼ばれている。一般的に幼い子供が初めて歴史に触れるときに勉強するものだ。エリクもフィリーネからその意味の端々は聞いている。だけどもクレアの言葉は信じられないものばかりだった。
「でも彼女達は決して救いの女神ではなかった。その戦争は彼女たちが起こしたようなものですから」
彼女が紡いだ話はこうだ。
時は一般的に言われるような『百年戦争』の時代。大陸の覇権を争った王者達に抗う為に彼女たちは武器を手に取った。だけども彼女たちの力はそれだけでは無かった。ある人は五つの理を操り、ある人は時間を動かす。ある人は舞う事で人に勇気を与え、ある人は神に祈る事で未来を視た。彼女たちは王となり、礎となった。
「ある意味では新たな世界の創造者、だから神と称された……でも、侵略者だったのかも。だって類い稀なる力はそれまでに無かったのですから」
「……という事はそれまで栄華を誇っていた王者達は――」
“――そう、俺達は死んだ”
突如として響いた言葉に思わず目を見開く。自分と同じ声、それは全てを見て来たかのように憂いていた。だが、それ以上は何も響くことなく何事もなかったかのように脳裏は静寂を保っていた。
「殆んどは亡くなっています。ただ、フィーリ王国は特別で聖翼神フィーリ様自身が王族だったので今でもその血は女性のみに受け継がれています」
それは初耳だなと言いながら脳裏に響いた声が再び現れないかと耳を澄ますが再び鳴ることは無かった。
「そう言えば聞きたいことがあったんだ」
「なんです? 喜んでお答えしますわ」
何やら含みのある笑みを浮かべるクレアに内心冷や汗をかきながら問い掛けた。
「親父……ヴィルヘルムは王族の縁者だったのかな。魔術は王族の特権だろ?」
「……レイヴァス王国では違います。アルディード王家は比較的閉鎖的ですから例え、姫が降嫁したとしても王族の管轄内にいなくてはなりません。貴族の事ならカイザーが詳しいのですが」
名目上の降嫁であり、実質的には婿入りに等しい。そうして王族内での婚姻がある、長年の間アルディード王家は他者を取り込むことによって魔法の力を王家のみの力にしてきた。だけども平民に魔力を持つ理由は分からない。
「レイヴァス王国では能力のあるもの全てに等しく伸ばす権利があるとされ、魔術学院が作られました。入学するものは多かったとカイザーが言っていましたからかなりの比率だったのでは……」
そうなると実の父とされる人物によって殺害された魔道士はかなりの人数になるだろう。参考になったよ、とクレアに声を掛ければ優しく労いの言葉が帰ってきた。部屋へと足を向ける彼女とは反対の方向に数歩歩いて足を止める。
(――閉鎖的な王族、か)
平和的で温厚な治世だった筈なのにどうして急に圧政的な政治へと移行したのだろう。あの頃自分はあの場所に居たはずなのに何も知らない。当時幼い自分が少し憎らしく感じた。でも三歳程度の記憶は何も覚えていないのも頷ける。と、すると当時五歳だったテオフィールの方がもっと沢山覚えているのでは――。
「なんなんだ……まだ悩んでいると思ったら、あいつ爆睡しているぞ」
カツカツとヒールを鳴らして歩み寄るフィリーネは潮風を避けるための純白の外套を羽織っている。彼女はふと微笑むとエリクの隣に並んだ。
「ははは……でも、今度いつ寝られるか分からないよ、兄貴は」
一つの事に全力で打ち込むテオフィールは違うことを同時に出来ない不器用の塊。だからこそ何事も真剣に向き合う。きっとこれから考え込む事が多くなるだろう、だからこそ少しでも休ませてやりたい。フィリーネは瞳を伏せるエリクの顔を覗き込んだ。
「クレアに、何か言われたか?」
「特には」
古代の女神の話は今の自分達とは繋がる部分は無い。継がれている筈の力も今の自分達には無い。気になっているのは故郷に住む自分を大切に育ててくれた赤の他人、その事実を考えると胸が苦しくなる。どんな状況だったのか分からないが――。
「お前は考えすぎるな……といっても考えないか」
そう言ってくすりと微笑む彼女に反論しようと躍起になるがそんな必要は無かった。敢えて気を緩めようとしたのだろう。二人の間に沈黙が続き、波の静かな音が心地よく響く。
「俺が王族か、傭兵か。どっちが良い?」
不意の言葉に頬杖を突いてまじまじとエリクを見上げる。全くどういう意味だと内心溜息を吐きながら視線を逸らす。悪戯っぽく笑う声を聞きながら彼女はそっと瞳を閉じた。どっちが良いかなんて選べない。どちらとも命を懸けて人のために働く仕事。
“――お願いだから、無事でいて”
いつか何処かでそう告げた気がする。立場なんて、柵(しがらみ)なんてどうでも良い。ただ、貴方が生きて笑っててくれさえいれば私は笑顔でいられた。
心の奥底で悲鳴のような声をあげる女性を無理矢理押さえ込む。溢れだした感情を押さえつける術など知らない。ただ、無理矢理力任せに押さえ込むだけ。
(――女性?)
自分の中に生きるもう一つの人格の存在を確かに感じる。それはずっと昔からの事で改めて認識したのは初めてだった。
「フィリーネ?」
「ごめん……部屋に戻る」
様子がおかしいことに漸く気が付いたエリクが手を差し出すが触れる直前で振り払い、彼の横を一気に駆け抜ける。柔らかな薔薇の香りが鼻を擽ったのも束の間、その姿は船室へと消えていった。
「たぶん、今度は……変なこと言ってないぞ、俺。うん」
そう呟いて思いっきり体を伸ばす。ぴきりぴきりと鳴る関節は疲れに悲鳴を上げているのだろう。それとは逆に冴えきってしまった頭にどうしたものか、と彼は一人考え込んでいた。
+++++++++
息苦しさと目眩が同時に体を襲う。ふらつく足元を壁に手をやりながら何とか支えて部屋を目指すが視界は既に霞がかってしまっている。幼い頃に一度同じ様な事があったがこんなに目眩は続かなかった。不安な気持ちを抱いたまま壁に寄りかかる。
――ここで倒れる訳にはいかない。その強い気持ちで体を奮い立たせると何とか船室に入り込んでほう、と息を吐けば足は簡単に棒のようになり動けなくなる。そのまま床に叩きつけられるのは嫌だ、と思いながらフィリーネは意識を手離した。
「ぐはッ!!」
急に落下してきたかのように腹部にのし掛かった重みに目が覚める。そのまま青碧の瞳だけを外に向ければ空は白み始めていた。腹の上にいる人を見ればそれは意外な人物。ほつれた髪が綺麗に散らばっているのを余所にそっと頭を突いた。
「大胆な起こし方だな、フィリーネ」
恐らく普通の彼女なら飛び起きるだろう。だけども未だ反応は無い。長旅で疲れたのだろうと思いながら更に指先で彼女の頭を小突いた。
「寝るなら、自分の部屋で寝ろ」
未だ、反応なし。
「聞け、こら」
小突いていた指先をくるくる回して彼女の艶やかな黒髪を巻き取るが起きる気配もない。
「押し倒されたいか?」
「……兄貴、本気じゃないよな」
「俺は断じて無実だ」
丁度甲板から戻ってきたエリクに素早く両手を上げて白旗を挙げる。詮索するような瞳で此方を見つめるエリクに彼はひたすらぶんぶん首を振った。ここで誤解されるのは不本意極まりない。全く持って勘違いにも程がある。
「ったく、どうだかな。兄貴は分からないよ」
肩を竦めながら歩み寄るエリクは突っ伏したままのフィリーネの肩をそっと揺らす。それでも眼を覚まさない彼女を仕方無しにそっと顔を上げさせればその色はまるで陶器でできた人形の様に青白かった。
「な……!」
「お前の所に寝かせとけ! ……クレア、来てくれ!」
覇気のあるテオフィールの声が船に響き渡る。その声は緊張感の塊のようで部屋で休んでいたクレアだけでなく、仮眠していた船長まで叩き起こすことになった。
「呼吸も大丈夫……肌もほんのりと暖かいですし、命には別状ないと思います」
「姫様……」
エリクの乱雑な寝床で寝かされていたフィリーネを大きな寝台に移そうかと提案するがそのままにしておいた方が良いと言うクレアの薦めに彼女の懇々と眠り続ける姿はまるで眠り姫。不安そうに彼女を見つめる船長はまるで祈るように両手を組んでいた。
「取り敢えず、ケテルの街に着くまでは何も出来ない……目覚めるのを待つだけか」
誰もが部屋を出る中、エリクだけは立ちつくしたまま彼女の顔を見つめ続ける。そんな彼に声を掛けようと足を止めたクレアの背を押し出すようにテオフィールの手が添えられた。振り返りながらもエリクを見ようとする彼女の視線を遮るようにテオフィールは静かに扉を閉めた。鋭く射るように輝く紫の大きな瞳が彼を見つめる。
「どうしてエリク様を置いていかれたのですか」
「それが一番だと判断したからだ」
そう言って辺りを見回せば水平線から顔を出した太陽と生活の灯火を輝かせるケテルの街。既に自分達がやるべき事が迫っていて、後戻りはもう出来ない事を示していた。船は彼らの事情も知ることなくただ、無情に目的地に着いた事を告げる汽笛を空に響き渡らせていた。
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