月光のラナンキュラス
Act.19 決戦
柔らかな太陽の光が地平線から顔を出す。暖かな空気が宙を舞い、うっすらと陽炎を作り上げていた。それに伴い、夜を支配していた闇は影を潜めて静かに消え行く。それが理によって支配されるレイヴァス王国の朝。
「何回見ても綺麗だわ」
うっとりと空を眺めるイーナはユーディトが教えてくれたことを静かに思い返す。空に陽炎が揺れた時、テオフィールとエリクが戻ってきた証拠だと言う。そしてその陽炎が今目の前で揺れているのだ。同じ土地にいるのに、おかえりも言えない自分。もう部屋に捕われて一週間くらい立っているのだろうか。時間の感覚さえ曖昧になっている。
「眠れなかったの?」
ふいに掛る声に振り返ればそこにはいつも結っている銀糸を緩やかに流したユーディトの姿があった。
「少しだけ。今日だと考えると不安になっちゃって」
微笑を浮かべてみるも、ちゃんと笑えているだろうかと客観的な自分が居る。これから戦いが始まって沢山の人が血を流す。それだけではなく、死んでしまう人も出てくるのだ。それがとてつもなく恐ろしい。
(……エレナ、力を貸して。大切なものを守る力)
今は居ない親友に祈りを捧げる。最期に見た光景は血だまりに沈む姿。出来ればもう二度と見たくない光景だった。それがもう一度、この故郷で行われる。そう思うと安心して眠ることは出来なかった。
「カイザーはあぁ見えても作戦を立てるのは上手いわ。稀代の軍師と呼ばれた方には及ばないでしょうけどね」
「軍師?」
聴き慣れない言葉に首を傾げる。アルディード帝国ではもう長い年月の間戦はなく、年寄りと呼ばれる人でも戦いを知らない。その知識を学んでいるのは恐らく軍人でも高位にあたる。
「軍師は戦極を読み、相手の隙を見出してそこを突く。簡単そうに見えるけどもの凄く集中力と知識が必要なの。かつてライナルトの先祖、アイリーンという女性が軍師として活躍したと聞いているわ」
「女の人!? 信じられないわ」
村でも先頭に立つのは男ばかり。だが、よく考えてみればユーディトも家長の立場にあり、政治を司る役職についている。
「能力の差に男女の差はないわ。やろうと思えばなんだって出来る。だって私たちは人だもの」
そういって笑う彼女にそっと頷いた。狭い了見で物事をみれば狭い心をもった人間にしかなれない。広い視野が自分を救うかもしれない。そう思うと運命は心一つで変わる、そう思った。
「ほら見て、ライナルトが動き始めたわよ」
ユーディトが指差す方向に目を凝らせば渡り廊下を供を連れて足早に歩く男の姿。此処、【蒼空の回廊】からは彼等の様子が分かりやすい。だが、焦ったように指示を飛ばす彼が何を言っているのかはよく聞こえなかった。
「頃合いね、私達も動き始めましょうか」
「な、何をするの?」
かつかつと洋服箪笥に歩み寄ったユーディトは上から順番に戸棚を数えると四番目の棚を外した。その奥に手を伸ばして出てきたのは細長い紐のようなもの。それとイーナが捕らわれた時に没収されたはずの杖だった。
「この前、カイザーが来た時に回収しておいたのよ」
確かそれは前家長の亡くなった日だというあの日。唯一城を自由に歩けたあの日に準備をしていたのだろう。自分は漸く決心を決めた頃、どうやってきっかけを作るのか考えてもいなかった。
手渡された杖は余りにも久し振りで少し重く感じたが以前よりも力の同調が早くなったように感じる。恐らくユーディトの指導のお陰だと思うが。
「ユーディトのは何?」
弾力性のある紐のようなもの。先端には鋭い棘の様なものがあるが他に武器らしいところは無い。
「鞭よ、これが短くなったのが教鞭ね」
使えるの、と問えばユーディトは笑って杖を軽く持ち、体を引くように促した。床にのさばる鞭がどのように動くのか一挙一動を見逃さぬよう、目を見開いた。
「行くわよ」
それを合図に彼女が持っていた鞭の柄を軽く動かす。するとまるで蛇のように杖に巻き付き、イーナの手からそれを奪うと瞬く間にユーディトの手に収まってしまった。
「凄い……!」
「他にも色々出来るけど秘密。行きましょう、やることは沢山あるわ」
紅茶を一口、口に含んで飲み込んだユーディトは真っ直ぐ扉に向かうと入り口に背を向けて佇んでいた兵士の首ねっこを掴んで部屋の中に引き入れる。驚いたように背中から床に滑り込んだ兵士を間発入れずにイーナが杖で殴るとあっという間に失神してしまった。
漸く此方が武器を持っていることに気が付いた二人の兵士が剣を抜いてユーディトにとびかかるものの、無駄のない動作が簡単に切っ先を避ける。素早く刃から逃れると一人を蹴りあげ、鞭でもう一人の首を捕えると壁におもいっきり叩き付けた。
「いい準備運動ね、全く」
瑠璃の瞳が呆れたように兵士たちを見下ろす。大丈夫だろうかと顔を覗かせるイーナに手招きをするとふと息を吐いた。
「凄いね……」
「下士官だからうまく行ったのよ。これからは多分そうはいかないわ、貴方の力を借りなきゃ」
いいわね、と声を掛けるユーディトにそっと頷くと二人は部屋を飛び出した。広がる廊下は久しぶりに出た所為か上手く距離感が掴めない。狭い部屋にいたことがこんな所に影響するなんて考えたこともなかった。
「良いこと? 私達はブリガンティアが来るまで不安を煽れば良いの。隠れながら行くわよ」
そう言うユーディトはつかつかと余裕のある歩みで歩み出す。その背をイーナは置いて行かれないように必死に追いかけた。
+++++++++
北から流れてくる風が微かに悲しみを孕んでいるように感じる。そこにあるのはレイヴァス王都、あの場所に多くの人々の人生を狂わせた男がいる。そう思うと引き返すことは出来ない、そう思った。
青碧の瞳が蒼穹の空を見上げる。交わした約束は果たすことが出来るだろうか、掴めなかった手を握ることが出来るだろうか。離れれば離れるほど思いは美化されていく。それは承知しているけれど――。
「テオフィール、準備は出来ているか」
漆黒の髪を揺らしながら歩み寄るフィリーネは既に簡単な鎧を身に纏い、矢筒を背負っている。
「あぁ……本当にお前は良いのか?」
「髪さえ隠してしまえば身分は悟られない。私は友人を見捨てるほど薄情じゃないわ」
にやりと不敵に微笑む彼女に思わず苦笑する。アルディードからの書簡の内容も気にはなっていたが最早迷っている時では無いようだ。彼女はいつになく穏やかに微笑むとテオフィールの背中に手を添えた。その温かみを感じながら彼は長剣を握りしめると静かに瞳を閉じるとふと息を吐いた。
「緊張してるのだな」
「当たり前だ、軍で動くのは生まれて初めてだぞ?」
そういう彼だけども開かれた瞳は輝いている。傭兵とは毎回こなす任務が同じと言うわけでは無い。怖じ気付かないのは傭兵をして身についた度胸のお陰。例え家族揃って幸せに暮らせなくても今はそれに感謝したくなった。
「兄貴! 来たぜ!」
「ほら、もう迷っている暇は無いわ」
丘から一気に駆け下りてきたエリクの言葉に肩から下がる弓を持ち直す。矢筒も準備に抜かりは無い。それでも彼女は知らない。フィリーネ自身の表情もいつもより固いことを。
木陰に体を隠しながら着実に此方に向かいつつある軍隊、それを目の前に何を思えば良いのだろう。今はただ自分の役目を全うするだけ。それを心に決めると静かにカイザーの合図を待った。すると間もなく兵士達の悲鳴が響く。地響きするような水の音にカイザーの魔術が展開されたことを悟るとフィリーネは静かに大きく呼吸をすると両手で手を組みながら言葉を紡いでいく。軽やかなその音色に乗って濃密な魔力が空間を支配する。言葉を紡げば耳を傾ける者に幻覚を突きつける。まるで自分がその言葉の中で動く登場人物のように。
「行けるか……」
確かカイザーが城においているという密偵だかの話では宰相軍の鎧は魔術を無効化させるという。だが宰相の無理な政治は財政を逼迫させているのは誰もが知っている。それを証明する為にカイザーの従姉ユーディト――記憶の中では幼い彼女の方が鮮明で実際の人物は分からない――が魔術を使って鎧を破壊したらしい。その欠片が今テオフィールの掌で輝く。脳裏にクレアの言葉が静かに響いていた。
『王族の力は特別なのですが……一応これを完全に溶かせられば普通の兵士は魔術を使っても倒せるはずです』
『特別とは?』
『精霊魔法を作り出した慈悲神レイヴァス様の直系ということは能力も同等に使える可能性がある、そういう事です。レイヴァス様は理を操る能力を持っていましたが余りにも強大過ぎる為、もっとも信頼した人達に分けたと聞いています。それが今の三大貴族、もとい四大貴族なのです。実際レイヴァス様は余りにもお若くご逝去されたので証明することも当時は叶わなかったとか』
つまりは自分の能力と技量次第で女神と称された『あの女』と同じだけの力の原石をもっている。それをどう磨くかは自分次第。テオフィールは掌の破片を強く握りしめると長剣を片手に素早く立ち上がった。
「エリク、フィリーネを援護しながら後から着いてこい」
「ちょ……! 一人で行くのかよ!」
兄貴の背を守るのは何時だって俺だろ、と問いかけるような瞳に思わず苦笑を浮かべる。だが術を展開中のフィリーネは無防備に近い。大切な人を守る事に全力を注ぐ弟の性格は十分承知している。それは今テオフィールには必要ない。何故ならブリガンティアが全力で彼を守るから。この国ではテオフィールの死が国の死に値する。ブリガンティアは決して国を殺さない。だからこそ友を守りたい。
「自分達の為すべき事をするんだ」
「……勝手に死んだら許さねぇからな」
まだ納得していない口振りで言うエリクにまさか、と髪を掻き上げる。見慣れた自信ありげな表情と左耳に揺れる紅の耳飾り。長剣を片手に去り行く兄の後ろ姿を目に焼き付けるとエリクは静かに大剣を構える。
「舐めんなよ、此方は叩き上げの傭兵だぜ!」
迫りつつある兵士を前に彼は大きく叫んだ。
背後に流れる軽やかな音色。ただ、それを守りたい。大剣を地面に突き刺しつつ大きく前に滑らせれば鋭い衝撃波が襲いかかるが、微かに鎧に傷をつけるだけに止まってしまう。素早く間合いに斬りこんで来た兵士を蹴りで突き飛ばすとそのまま大剣を器用に鎧の間にはさみこむと金具ががちゃり、と割れた。
それを好機としてフィリーネの回りを囲っていたブリガンティアの魔道士二人が素早く呪文を紡いで念動力を放てば兵士は地面にたたき付けられて動かなくなる。だが、このような手間のかかることを行っていたのでは体力の消耗が激しい。魔法だってそう易々放てるものではない。初めて魔法を使ったときの疲労感は凄まじかったのを体験しているからこそ言えることだ。
「待たせたな、術の展開は終わったわ。歩みが遅くなっていればいいのだけど……」
「くー! 良い所持ってくぜ」
確かにフィリーネの言う通り、心なしか兵士達が迫る速度が歩く程度の早さになっている。これならば立ち回りが読みやすい。相手側も急に此方が早くなったと感じて焦り始めるだろう。歌というのは広範囲にまで響き、その能力を発揮する。戦闘補助としての能力は申し分無い。
「グズグズしている暇は無いぞ、用意は良い?」
バンダナで漆黒の髪を覆い隠すと気合いを入れるようにきつく縛って、弓の弦を確認する。少し弾けば空間の影響を受けてぼやけた音が鳴る。おそらくこの鈍足の空間は歌の残響が消えた瞬間、恐らく半刻も立てば消えてしまうだろう。
「このまま真っ直ぐ行けば良いんだな」
川を上るオズとクレアが率いる船隊とテオフィールとカイザーが侵攻路を開く先行部隊、そしてエリクとフィリーネの制圧部隊。陸を駆けるのが少数であるのは川を上る部隊に戦力を集中させ、丘からの奇襲を受けても被害が少なく済むように。そして奇襲を迎え撃つのが王子の部隊というのは二人の戦闘経験が豊富だから。
「何も無いと良いのだが、そうは行くまい。何があっても先を行け」
「先、ね……」
ぽつりと反芻するエリクにフィリーネは何か言おうとするがその前に大剣を抱えて走り出す彼の背を見ると慌てて魔道士達に合図を送り、追い掛けた。
先を行くテオフィール達が通った跡と言うのはまるで嵐が通り過ぎたような荒々しさが残っている。焦げた草や巨大な水溜まり、それらは理に愛された魔道士達が放った魔術の名残。遠くで微かに火柱が上がっていた。
「投降するなら道を開けろ、邪魔だ!」
張りのあるカイザーの声が既に戦意を無くした兵士達に降りかかる。だが、想像もしていなかった強力な炎の魔術に腰を抜かした兵士達がそう簡単に動けるわけでもない。近郊に住んでいる人々が騒を聞き付け、様子を伺っているのがよく分かる。
「正に……フォルクマール様の生き写し」
誰かがそう呟いたせいで、新たなる記憶を呼び覚ます。母、エルフリーデは『あの方』としか言わなかったが確かに父の名は記憶に刻まれていたようだ。
「陛下の御姿を覚えている民はまだいる筈だ。その度にお前は同じことを言われる……それが耐えられるか?」
優しく知的だった父王が大人しくライナルトに捕らわれた理由。それがいかなるものであったのか想像もつかない。それと同じ様に民も知ることは出来ない。だからこそ、昔を懐かしむ者もいれば、死した家族を想って恨むものもいる。王として立つならば全てを受け入れ、真実を知り、明かさねばならない。
「俺はやる、父上が考えていたことを知りたいからな。思いを受け継いで見せる。それに王家につけられた泥は俺が拭ってみせる」
それが王子たる役目。
テオフィールは剣を握り直すと襲いかかる兵士を躊躇なく切り捨てた。後ろで背を守るカイザーも短剣に添えられた宝珠を媒介に魔法を放っては戦意喪失を促す。城門は既に目の前。兵士達が躍起になって阻んでくるためにどうしてもあと一歩が重すぎる。魔術は剣技よりも精神的疲労が著しい。剣と血筋のお陰で疲労は少ないテオフィールを除いては殆んどが限界に来ている筈だ。
その時、突如として雷鳴が響きわたる。つんざくような轟音と稲光が空間を支配する。それは神々しくも恐れ多く見えたのはまさに『神鳴』の字の通り。呼び掛けに響いた声はそんな力を操るとは思えない少女の声。
「全軍王子の援護を!」
「野郎共、俺たちの海のために!」
地面が揺れるような声と共に船から溢れるように人が飛び出していく。予想外の場所からの増援に宰相軍も驚いたのか混乱するばかり。それを好機と見たテオフィールは兵士たちの間をすり抜けて真っ直ぐ城門を目指した。
「クレア、此処は頼んだぞ!」
そう言い放って直ぐ様背を向けたカイザーの背に任せて、と叫ぶ声が刺さった。
+++++++++
風を切る矢の音と大剣が弧を描く重い音。二つが交互に響き渡る戦場よりも少し離れた場所で稲光が走るのが確かに見えた。襲ってくる兵士達は予想よりも多く、少ない人数で編成されている彼等には荷が重すぎるのが正直な所。既に歌の残響も消えていて疲れきった体に鞭を打たねば勝つことは難しかった。
「畜生……どうなってやがる。斬っても斬ってもきりがないぞ」
生臭くなりつつある血糊を拭って呼び掛けてくるエリクの声に答える気にもなれないフィリーネの荒い呼吸が聞こえる。矢筒の中の矢はもう殆んど無い代わりに彼女の周りには眉間を撃ち抜かれた兵士の死体が散乱している。
「もう、無理よ……残ってるのは私達だけ。これでまだ戦わねばならないなんて」
経験したこともない。
近衛騎士として何回か内乱の制圧に出たことはあっても戦力に此処まで差があったことは一度もない。それは兵士たちの質や装備。それに資金や民の協力があったからこそ成功したのだ。膝を付くフィリーネの腕を取って歩き出すが数歩も歩かない内に倒れこんでしまう。
「何で……何で動いてくれないの!?」
何処へやれば良いのか分からない怒りを自分の足に向ける。この死体の絨毯から抜け出したい、自分が殺めたと痛感させられるから。責めてくれれば良い、怒ってくれれば良いと思うのに自分を見つめるエリクの瞳は酷く優しい、残酷なほどに。
彼は何も言わずに立ち上がると漆黒の髪にそっと触れてふと微笑む。それがどこかで見たことがある表情だとふと思うのに何も言えなかった。いつもそう、言いたいことの半分も言えない。強くいたいと願えば願うほど弱さが現れる。
「無理、すんな」
疲れているはずなのに気を遣わせている。そんな自分が堪らなく大嫌い。ゆっくりと先を歩き出すエリクの背をただ呆然と見つめる。暫くは何も考えたくない、と目を伏せるがそう甘えてもいられないのは分かっている。
フィリーネはゆるゆると立ち上がると強く瞳を閉じる。自分の奥に眠るもう一人はまだ力を貸してくれるだろうか。
『守られるのは嫌?』
(……そうではない)
問掛けてくる声にふと安心感を覚える。求めれば響く声、今は救いの言葉。声音も姿形も同じだけども嫌悪感を感じることはない。
『強いと思われる人ほど脆い。かつて理を操った人は本当に儚かった』
理を操る者として思い浮かぶのは慈悲神レイヴァス。その存在や性格も曖昧なその人をどうしてこの人は知っているのだろう。そう思いながらも問えない自分がいた。
『恥じることはない。今度は貴方が支える番』
「どういう事だ!?」
思わず出た言葉にはっと我に返る。そうだ、今はこんなことをしている場合では無い、と自分を戒める。周りに倒れた兵士達の眉間から数本の矢を引き抜くと矢尻を確認する。少し曲がってしまってはいるものの致命傷を与えるには十分な鋭さを持っている。
「支える番……強いほど脆い。嫌な言葉ばかりね」
力を無くしていた足もいつの間にか立てるくらいの力は取り戻していた。これなら今からでも追い付ける。フィリーネは転がる死体を一瞥すると直ぐ様、踵を返して走り出した。出会うのは殆んどが胴に深い太刀を刻まれたものばかり。その深さから言っても幅広の大剣が該当する。
(離れるべきじゃなかった……)
今更になって悔やんでも遅いのは分かっている。それでも嘆かずにはいられないのはエリクが無理をして戦っているのが分かるから。冷たい汗が背中を流れた。
「エリク……エリク! 返事をしろ、お願いよ、何処に……!?」
その瞬間、背中に気配を感じて慌てて振り返れば鋭い衝撃とともに見慣れた人がそこに立っていた。
「戦場で叫ぶほうが危なっかしいぜ……ったく」
「お前、血が……」
ふらつきながら力無く笑うエリクに慌ててその体を支えようと背中に手を回して一つの事実に気が付く。さっきの衝撃、そして彼の背に突き刺さる何か、血色の悪い顔と流れる血。
導き出された答えは一つ。
「伏兵……!!」
エリクの体越しに見える景色に歯を食い縛る。確認できるのはフィリーネと同じ弓使いと剣士。既に意識が朦朧としているエリクをかばいながら戦うのは難しい。せめて体が回復しようと眠りについてくれれば狙われる心配も少ない。導くのは生きるための眠り。フィリーネは素早く弓の弦を指で押さえたり、離したりして音を懸命に奏でる。声に出せば術を展開していることが分かってしまう。
その間にも二人の敵兵は迫っていた。
「奇跡は起こせないけど、助けになるわ。……私が《支える番》、ね」
淡い光が霧散するようにエリクの体を大きく包みこむ。優しい光はまるで雪のように見えた。鼓動に耳を済ませば安定した心臓の音が聞こえる。これならば決して死ぬことはない。体が癒えれば自然に目を覚ます。
フィリーネは静かに懐に持っていた短剣を握ると数歩まで迫った剣士に向けて大きく突き出して見せる。がちん、と刃が交差する音に剣士は少し驚いた顔をしてみせる。女だとして侮っていたようだがそうはいかない。
近衛騎士はあらゆる場所に自らを偽って潜入する仕事も行う為、武器の扱いも常人より多く習得しなくてはならない。それが煩わしいと幾度と無く思ったが大切なものを守るには不可欠な力とやっと認識を改めることが出来たかもしれない。
「はっ!」
短剣は刀身が短いのが特徴。懐にさえ入り込めば甚大な被害を与える事が出来る一撃必殺の武器となりうる。だが、フィリーネが突きだした切っ先は意図も簡単に避けられてはその軌跡を阻まれた。
「魔道士が術ではなく武器を使うとは無様なものだな!」
剣士の煽る様な言葉にフィリーネはただ片眉を上げただけで直ぐに反撃に転じる。動揺を見せない彼女に少し苛立ちを見せる剣士に隙が生じた。一気に間合いを詰めて左胸に刃を突き立てようとするが紙一重で避けられ、切り裂いたのは腹だけ。
「魔道士に武器で負けるのも、どうかと思う」
「貴様……!」
歯を食い縛る剣士に鋭い視線を向ける。その瞬間、剣士の陰から何かが飛び出した。慌てて身を屈めて衝突を避けるものの、次に襲って来たものには対処しようがなかった。体から解放されるように飛び散る鮮血と降り掛る血の雨。避けようとしたときに向けた背中を大きく斬られたらしい。チリチリと熱くなるのは傷の所為。
追撃してくる刃を必死に避ければ形成逆転して、嘲笑うように見下ろしてくる剣士。その向こうには見落としていた弓使いの姿。
「祈れ、魔道士。来世では同じ身分に生まれないと良いな」
「……言われずとも」
二度と皇女などに産まれてくるものか。大きく剣を振り上げる剣士を睨み据えながら必死で短剣を握り締める。
ただ純粋に思ったことが一つあった。
(……負けたくない)
皇女の誇りは傷つけられても、同じ魔道士としての誇りはある。必死に二十一年を生き抜いた魔道士も元は人間、自尊心があるのが珍しいとは思わない。
「じゃーな、別嬪さんよ」
空気を両断する刃が酷く遅く見えた。歪む剣士の表情、人を殺すときは誰でもこういう表情を浮かべているのかもしれない。フィリーネは握り締めていた短剣を素早く放つと痛む背中をかばいながら地面を転がった。
朦朧としつつある意識の中で悲鳴が確かに聞こえる。きっと致命的な打撃を与えられたのだろう、どさりという音が響いた。
「はぁ……はぁ……」
瞳を強く閉じて傷口に意識を集中させる。未だじんわりと暖かいそこは熱を持っているようだ。恐らく止血すれば簡単に治る傷だろう。朦朧とするのは急に血を失ったせい。それでもまだ――。
(あと一人……!)
予想通りに降り注ぐ矢の雨に背中をかばいつつ、転がって避ける。フィリーネとて伊達に弓使いはしていない。その強さと角度で放った本人が何処にいるか、推測できる。先程の雨のような矢は全て同じ速度で落ちてきており、それも複数。ある程度の技量は持っているが精度に欠けるらしい。
彼女は矢をつがえるとじっと死体の間に目を凝らした。弓使いが戦場に出るには他人に認められるだけの技量が無くてはならない。だけども精度が欠ける矢、その理由はただ一つ。
「無理な姿勢で射つからだ、馬鹿者め」
苦々しく呟いた言葉と共に押さえていた矢を離す。矢は美しく弧を描くと死体の間に寝転がっていた弓使いを見事に撃ち抜いた。その手には複数の矢が握られており、悟られない自信があったのだろう。
ふとフィリーネの口元に浮かんでいた笑みがきつくなった。
(……死ぬ、かな)
どさりと地面に倒れこんで大きく息を吸い込めば、まるで杭を打たれるように痛みが走る。このまま眠ってしまえば楽になれるだろうか、そんな甘い誘いがゆるゆると襲ってきた。
イーナに生きろ、なんて言ったけど生きることってなんて難しいんだろう。生が近い時の死ぬ事と、死が近い時の生きる事は殆んど無理である。それが分かっていても願わずにはいられないのだ。人は変化を求めるからこそ、生きたい、死にたい、と思う。一つの所に止まることが出来ない人間の運命。
迫り来る闇にそれを見たような気がした。
+++++++++
幼い頃から親しんだこの回廊はこんなに広かっただろうか。この前訪れたときはそんな事は全く感じなかったのに今では迷路のようにさえ感じてしまう。それに対して前を走る未来の王は躊躇無く道を選ぶとただ阻む兵士を切り捨てた。
「畜生……何処だ」
「最上階まで上がるには特別な道順がある。先にユーディトやイーナを保護しよう、これだけの兵士を相手に出来るとは思えない!」
歯を食い縛りながら何処にいるかも分からない敵に青碧の瞳を細める。城にまで侵入を許し、敵側が黙っているとは到底思えない。幾らユーディトとイーナが脱出していようと手元に居ない限りは人質も同然だ。此処はカイザーの言うとおりにした方が良いのかもしれない。だけども、心に従う方が良い時もある。
「俺は行く。道順は覚えているし、俺は一人でも生き残れる」
「それはお勧めしませんわ、陛下」
低めの女性の声だけどもフィリーネよりも高い声。その声に振り向けばカイザーと同じ銀髪の女性。頬を血に染めた表情と妖艶な深紅のドレスは彼女の妖しい魅力を最大限に引き出す。戦場に場違いなその姿に思わずテオフィールは眉を潜めた。
「御挨拶が遅れまして大変申し訳ありません。私はデーベライナー家の当主のユーディトと申します。テオフィール様、ですね?」
片手に鞭を持ちながらも優雅に腰を折るその姿は美しい。カイザーと同じ蒼の瞳は記憶の中のある人物と一致させた。
「あぁ……一度会ったな。あの時はずっとエリクの相手をしていた」
「はい、覚えておいででしたか」
柔らかに微笑む彼女の表情は少女時代を彷彿とさせる。だけども瞳の中にある鋭さは当時は無かった。
「イーナは一緒じゃないのか?」
「えぇ、はぐれてしまったみたいなの。近くにヘンゼルを置いておいたのだけど……あの子がついていけたかは」
――多分、無理だろう。
問掛けたカイザーでさえもがっくりと肩を落とす。ユーディトが直々に魔法の扱い方を教えたとしても所詮、イーナは初心者であり、直ぐに扱えるようになると言うことでもない。そんな彼女を一人にしてしまったのだ。早く見付出さなければ危ない。
「はぐれてしまったのは五分くらい前。直ぐにでも追い掛ければ合流できるはず」
「なら、俺はこのまま上を目指す。二人は下に行く道で探せ」
長剣を片手に背を向けたテオフィールはそのまま確かな足取りで廊下を歩いていく。その姿をみて思い出すのはただ一人。今はもうそこに居ない筈なのにまるで戻ってきたかのように見える容姿。その姿に何故か心が励まされた気がした。
「人は出会った人を別の人と重ねて見てしまう……俺も例外ではないな」
ぽつりと呟いた言葉は虚しく回廊に響きわたる。自分の歩く音だけが際立って聞こえ、たった一人しかそこに居ないと痛感させられる。こうなる事が分かっていたならきっとあの時、残るといったイーナの腕を掴んで、止めろと言うことが出来ただろうに。でもどうして止めなかった、と聞かれればどういう風に答えればいいか分からない。
それは多分――。
(……瞳の色と性格が彼奴を思い出させたんだな)
明るくて何事も全力でこなす癖に人を気遣うのが癖のあの女性。まるで弟を可愛がるように接してきたあの人は酷く人間らしい人だった。
『子どもはギブアップしても負けじゃないよ。大人になってギブアップしないようにすればいいの』
『人の誇りを……忘れた傭兵にならないで……ね』
走灯馬のように脳裏に浮かぶ思い出の中で彼女はいつも感情豊かだった。多分今彼を見たら、立派になったねと言ってくれるだろう。
テオフィールは目の前に立ち塞がった蒼の扉を見上げた。重厚且つ研きあげられたその扉。普通ならばその先に王が居るが、今は宰相と言う名の独裁者がいるだけ。瞳を閉じてその先にいる人物の気配を探れば、一つは雷の気。
もう一つは――。
「イーナ!」
強く扉を蹴り飛ばして王の間へと足を踏み入れる。そこには初めてブリガンティアの拠点を訪れた際に襲ってきたあの男。忘れもしない、あの瞳。
「良い宴の最中になんと無粋な。これだから宮中の嗜みを得ていない者は困る……まぁ、得ていても邪魔者はいますが」
紫闇の瞳を床に向ける男、ライナルトの視線の先には血だまりに横たわる二人の若い男女。一人は紺の髪の男ともう一人は赤毛の少女。辛うじて息はあるようだが虫の息に近い。
「貴様……」
「成程、宮の者が噂をする訳だ。前王に売り二つ、しかも同じ武器と来た。実に面白い。……ですが」
不意に頬に張り付いた髪の毛が逆立つ。体にまとわりつく気に嫌な予感がしてとっさに体を低く保つと予想通りの青白い光が宙を舞ったライナルトが当主として立つブラントミュラーは雷を操る家系。
「やはり、すばしっこい……ですか」
玉座から冷たく見下ろしてくるライナルトに歯を食い縛る。剣になら分はあるが魔法となると力加減がどうしても掴めない。
「ふざけるのも大概にしろ!」
「王者には慈悲が必要だと教えてもらいませんでしたか、テオフィール王子?」
「慈悲……その言葉じゃ済ませない。苦しみなど知らない癖に!!」
怒りに身を任せて渦巻く炎をぶつける。あてもなく、ただ破壊の限りを尽す炎はいとも簡単にその体を小さくし、やがて消えた。
「やはり父君には劣りますね。二十一年前、あの方は素晴らしい戦いを見せてくれた。意気消沈し、投遣りだったとしても、軍を司るこの私を唸らせたのですから」
あれは本当に最後の足掻きだったのだと思う。ライナルトの私兵に囲まれていたとは言え、凄まじい業火をまるで手足のように巧みに操る姿。その力は余りにも強大で、あの時隙を見出さなかったら前王フォルクマールは一人で私兵達を焼き殺していただろう。
そして王の私室に飾られた歴代の肖像に宿る青碧の瞳を見る度に思う。頑固で人に頼ることなく、強い意思でもって国を導いてきた始祖王レイヴァス。長い時を経て神格化された女神の本当の名はレイ・ブルクミュラー。王の私室に隠された部屋には日記が一冊見付かったものの、王家にしか解く事ができない炎の封印が施してあった。その中に封印されていた知識があれば国を治める者として君臨できると、そう信じていたけれど――。
「俺はお前を楽しませる気は毛頭無い。覚悟はいいか」
返事をしないのは分かっている。だからこそ素早く地面を蹴った。大きく剣を振り上げて背後に回った瞬間、陰から飛び出した見慣れた人物にぴたりと剣を止めた。それは自分が戻ってきた理由の一つ。
「イーナ、そこをどけ」
両手を大きく広げて必死に首を振る彼女を睨み据える。互いの両親の仇であるこの男をどうしてかばうのか。血が上がりきった頭では冷静に判断できなかった。
「雷の加護を持ったこの人を殺したらまたこの国が傾いちゃうんだよ!!」
「そこをどけと言っている」
「駄目!! テオ、私達復讐が目的じゃない! “生きる為”なんだよ!?」
あるべき姿に戻ってほしいだけ、改革なんて望んでいない。故郷の土地にまた生き生きと呼吸をしてもらいたい、そう思ったから残ることを決めた。失われた破片を戻せば、この国はまだ生きられる。
懇願するような猩々緋の瞳にテオフィールは思わずその剣を持つ手を緩めた。その瞬間音も無く光と衝撃が襲う。自分の目の前で両手を広げていた筈のイーナが吹き飛ばされるように宙を舞う。それは酷くゆっくりでまるでテオフィールに見せ付けているかのように見えて――。
“――やっぱり、私じゃ駄目なのかな”
フィリーネに幾等現実を説かれようともその意思を曲げることもせず、逆に考え方を大きく変えたイーナ。そんな彼女が初めて漏らした弱音。別に言葉を発した訳でも無いのに微かに動いた口元から聞こえたような気がした。
「……くっ!!」
突き崩された希望、儚い願い。些細なことが世界を大きく動かすのを忘れていた気がする。素早く地面を蹴って床に叩き付けられる寸前のイーナの下に回りこんで受け身をとる。からり、と剣が床を滑った。
その瞬間、爆音が辺りに響きわたる。ぐったりと横たわる彼女を貫いた雷の音が今になって漸く響いたのだ。雷が焼いた腹部は肉の焦げた臭いとおびただしい出血。いつか見た景色と重なる。失ってしまうのだと自覚した時、初めて涙が流れた。
「これで加護の一つは失われましたね。私を殺すのにも戸惑いは無くなったでしょう?」
「あぁ、無くなったさ。お前はただ自分が行ってきたことを戒めて欲しいだけ。本当は後悔している癖にそれを認めない馬鹿者……俺と同じだ!!」
転がった剣を取って勢いのままに振るう。それはライナルトの持っていたレイピアと交わって嫌な音を響かせる。もう何がなんだか分からなかった。全部夢でありますように、と思った。だけども頬を流れる涙は確かに暖かくてそれが現実だと思いしらされた。
「ふふふ……それでは私が貴方に裁かれたいと願っているように聞こえるではありませんか」
「じゃあ、分かるように言ったら良いか? 皆が俺を先王と重ねるのは少しでも罪悪感があるから。そして『忌々しい』とまで言ったお前にとっては裏切った日を思い出させる。それが嫌だから……」
「やめろ!!」
今まで丁寧だった口調ががらりと変わる。余裕ぶっていた笑みは跡形も無く消え、残っているのは怒りの表情。それは本心を突かれたからか、侮辱されたからか。それを推しはかる程、テオフィールに余裕は無かった。力任せにレイピアを弾き飛ばすと横に払おうとするが容易にかわされてしまう。それに苛立って更に追撃するものの、不意打ちに放たれる魔法に避けざるを得なかった。
「私が後悔していることを一つだけ話しましょうか、王子」
息を乱したテオフィールを休ませるかのように紡がれる言葉。不意に紫の瞳に悲しみが強く宿り、反発する気にもなれなかった。
「それは娘を戦場に送り出したことですよ。それ以外に何を後悔しましょう」
自嘲するような笑みは色濃く刻まれている。自分達が何も知らずに穏やかに眠っている時、悲しんでいる人もいれば喜んでいる人もいるのだ。
「我が娘は王の暗殺に失敗し、死んだ。私には弔う義務がある!」
「話しても聞く気が無いなら、もう何も言わない」
語るのは戦いのみ。
テオフィールは再び剣を構え直すと深く息を吐いた。今こそ全てに決着を付けるべき時。静かに息を整えれば自分の中に常に燃えていた炎という名の感情。握り締めた剣を覆うように具現化すると蒼白い光を放つ。地面を蹴ったのはほぼ同時だった。互いに持てるだけの力を込めて武器を振るい、隙を見い出しては強烈な一撃を叩き込む。それは死闘と呼ぶにふさわしい戦い。
ライナルトの一撃をかわした瞬間、テオフィールは片手で強く地面を押すとそのまま背後に回りこんで突きを放つ。だが、その軌跡はレイピアによって阻まれて逸れてしまう。引き抜こうと力を込める間にライナルトの右足が腕に直撃した時、うめいたのは何故かテオフィールでは無かった。
眉を潜めて見下ろせば右足に突き刺さった数本の暗器。それはよく使われるものよりも数段小さく、軽い。恐らく、倒れていた誰かが投げたものだろうと決めつけて動揺を見せたライナルトを一気に貫いた。
いつもと変わり無い肉を斬る感触。仇ならば違う感じがするのかと思いきや同じだった。それもその筈、斬ってきたものは皆生きていたのだから。
「ク……ィア、今、側に」
最後に響いたのは娘に語り掛ける優しい父の声。テオフィールはずるりと剣から体が落ちるのを見つめるとそのままただ、立ち尽くした。
――全てが終わって、新たなる始まりの鐘が鳴ったあの日。自分達は何を失って、何を得たのだろう。『あの女』が言った言葉はもう近いのだろうか。何かに区切りを付けることを迫られた時、自分は大切なものを切り捨てられるのだろうか。不安と恐れ、生と死が入り混じったこの場所で、救いの女神は微笑んだ。
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