月光のラナンキュラス
Act.0 煌めく希望に
真紅が鮮やかな緑を切り裂き、空には灰色が占領している。その向こうでまるで彼女を追い込むように炎が迫り来る。焼けるような暑さが忍び寄るにも関わらず絹の衣を体に巻き付けると小さな鼓動を刻む小さな宝物をしっかりと両腕に抱いた。時折聞こえてくる悲鳴や怒鳴り声。それが聞こえる度に体がびくりと跳ねるが臆してばかりも居られなかった。
ほんの数日前まで美しく、清らかだった森の姿は今は無い。悲しいまでに葉は落ち、枝は悲しげに頭を垂れていた。まるで木々やそこに棲む生き物たちの悲鳴が聞こえてくるようで耳を塞ぎたくなる。だけども胸に抱いた宝物、赤子はそんな悲しみも露知らず、純粋な猩々緋の瞳を瞬きながら泣き声も上げることなく、じっと女性の姿を見上げていた。
「ごめんね……これくらいしか出来なくて」
見上げてくる瞳に優しく微笑みかけると蒼穹の瞳は強く前を見据える。語りかけた鈴のような声音とは対照的にその表情は強い意志を宿していた。本来ならばこのような争いはあってはならないけれど、これは信念の問題だった。国を大きく動かすだろう、この内乱は人々の運命さえも大きく変えてしまう。
――きっとこの赤子の運命さえも。
ぱちぱちと燃え広がる炎の暑さにふと我に返ると彼女は火避けの絹をしっかりと体に巻き付け大地を強く蹴った。兵士達が彼女の場所を突き止めるのも時間の問題であることは重々承知している。狂ったような声が辺りに怪しく響いていた。
次第に森の奥深くであるこの地にも雨が降り注ぐ。幾つも空へと旅立った魂が大地に向けて涙を溢している、そんな言い伝えがこの地には根付いている。死んだ者達が家族と別れを告げる為の惜別の涙が雨となって溢れ落ちているのだ、と。それを真実だと告げるかのように人が多く亡くなる戦争には必ず雨が降っていた。
暫く走ると土の臭いに交じって微かな潮の香りが立ちこめる。約束の場所まであともう少し。安心したかのように眠り続ける赤子の猩々緋の瞳の色は見ることは出来ない。だけども降りしきる雨の冷たさとは対照的に握りしめている手に触れれば驚くほど暖かくて柔らかかった。
きっと二度と会えないだろう我が子に優しい口づけを落とす。流れる涙は雨と混じり合って地面へと吸い込まれていった。
「マリア……! 良かった無事だったね」
ばしゃばしゃと水たまりを抜けて駆け寄ってくる人物に一瞬体を硬くしたがその聞き慣れた声と姿を視界に捕らえると押し殺していた不安や恐怖が一瞬にして吹き出してきた。赤子と同じ猩々緋の瞳を持つ男は優しく彼女――マリアと赤子を抱き寄せると暫く項(うなじ)に顔を埋めて何も言わなかった。きっと彼女が抱いている不安や恐怖と同じものを感じているのだろう。彼女は何も言わずに彼の衣服を強く掴んだ。
「兵士達がもう迫っているわ」
「【氷の宝玉】とブリガンティアの首領の首――僕が目当てだろうね。アレは屋敷に隠してきたからその場所を聞き出そうって魂胆だろう」
話したとしてもこの命が救われることは無い。ならばこのまま胸に秘めて散ってやろうか、そうしたらあの男はどんな顔をするだろう。まるで全てを棄てたとも思えるような笑みを浮かべてマリアの背に手を当てて先を促した。森の深さが浅くなり目の前に広がったのは両手一杯の海。立ちこめる潮の匂いはここから来ていたのだ。炎の紅色と夕闇の紺色が入り交じる景色、それは滅多に王都から出なかった彼女に取っては幻想的な世界に迷い込んだ、そんな感じだった。
「御伽話に出てくる景色みたい……綺麗」
そう呟いて巻き付けていた火除けの絹を払う。すると柔らかく艶やかな金髪がはらりと肩で溢れた。月光でも跳ね返してしまうような輝き、天を仰ぐ瞳は人に宿る天空の様に見えた。
「奥様、よくご無事で。早く脱出しなければ見つかってしまいますぞ」
腰まで水に浸かった初老の男は舟を準備しつつ、二人を急かす。しかし、女性は既に意を固めていたかのようにそっと首を振った。
「やはり、私には出来ない。死んでいった仲間達の犠牲の上に生きる事は出来ないの。貴方もそれを考えていたのでしょう?」
お見通しか、と情けなく笑う男性は頭を掻く。
「今の今まで考えてた。血筋が重要だって逃がされて、守られてきたけどもう逃げないよ。僕が死んでもこの子がいる」
彼の猩々緋の瞳が燃え上がったような気がした。頂に立つ者としてこれ以上逃げることは出来ない。そんな彼を見ながらマリアはそっと絹の衣を赤子に巻き付ける。肌触りの良いこの布が気に入ったのか嬉しそうに声をあげる赤子の頭をそっと撫で、もう一度しっかりと抱きしめた。
「なりませぬぞ! お二人は死んではならぬ方、だからこそ皆様が命をお賭けになって守ったのですから」
「僕は命に優劣があるとは思わないよ。だから、ずっと一緒に過ごしてきた君に頼みたいんだ。……娘を頼む」
主の強い一言が重くのし掛かる。自ら死地へと旅立とうとする彼らをもう止めることは出来ない――誰も、誰であっても。やりきれない怒りと悲しみは何処へ向ければ良いのだろう。彼は歯を食い縛ると静かに赤子を受け取った。
「貴方なら船出は容易いもの。その子の成長を私達の代わりに見守ってちょうだい……貴方なら出来るわ」
精一杯の微笑をを浮かべる二人にこれ以上辛い思いをさせる訳にはいかない。赤子の行く末を案じる必要が無いまま、心置き無く反抗していきたい筈だ。そして、その願いを叶えることが出来るのは此処に居る自分だけ。
静かに落ちた涙を乱暴に拭うと舟へと乗り込んだ。
本当ならば四人で乗る筈だった船は余りにも広く見えて切なくなる。それを振り払うように櫂を握りしめ、静かに沖へと船を動かした。
遠くなりつつある姿を目に焼き付けたいと願っても涙で滲んで良く見えない。悔しさで一杯になりながら、赤子の様子を見る。すやすやと安らかな寝息をたてて眠る姿、もう両親は居なくなってしまうのだよと教えたところで分かるわけがない。
彼は櫂を握り締めると静かに漕ぎ、その場を離れた。
「行ってしまったわね……」
ふと大きく息を吐いて男性を見上げる。精一杯の笑顔であの子を送り出せただろうか。渇いた涙が頬に道を作っていた。強がっているのは勿論分かっている、悲しみと感傷を孕んだ声に心が揺れた。
「後悔してる?」
「いいえ、仲間達だけを犠牲に出来ないと言ったのは本心だもの」
多くの時間を共にしてきた仲間達。それはかけがえの無い存在でありながら、自分達のために命を散らした人達。彼らは自分達が国を変えられると信じて命運を託した。だけども肝心の宝玉は手放し、宿した魔力が薄くなっていくのが感じられる。
同感だね、と呟いて男性は笑って天を仰いだ。
強く瞳を閉じて精神を落ち着かせる。この世にしがみつけるのはあと少しだけ。
「ドレッセル侯爵様、降参していただけませんか。もう貴方達しかブリガンティアは居ないのですから」
いつの間にか彼等の前に立った騎士は目を細め、口角をゆっくりと上げた。黄金の鎧でその身を固める騎士達の軍勢。たった二人で抗っているというのに素晴らしい念の入れようである。
「僕達が居なくなってもブリガンティアは続くよ。【救いの女神】っていうのは不滅なのが通説だしね」
――救いの女神、ブリガンティア。
神話で迷い、嘆く人々に一条の光明をもたらしたと言う女神である。その名を頂いた組織・ブリガンティアは彼――ドレッセル侯爵が率いる私兵の騎士団のようなもの。だけども彼らの意志を継いでくれる者が表れると信じて強がることが出来る。
だが,気丈に微笑んでいる彼とは違い、緊張に顔を強張せるマリアは拳を握りしめていた。
「ふふふ、奥方様は貴方の様に勇敢ではないらしい」
「長い物に巻かれている事しか出来ない貴方よりも勇気はあると自負しています」
震える体とは対照的に反抗的な瞳が兵士を射抜く。だが、兵士の言うようにもう後は無い。ぎりっと歯を食い張る音が鳴り響く音、迫り来る炎が上げるぱちぱちという音が耳に痛い。睨み合う両者に動きは無い。
咄嗟に服の端を掴む彼女に大丈夫、と呟いて手を握りしめる。生きるための権利は誰にも否定することは出来ない。彼の暖かな瞳が鋭いものへと変わる。
「王に伝えろ、ブリガンティアは必ず首を取りに来る。何年経っても必ずね。……王が生きていたらの話だけど」
くすりと微笑んだと思うと二人の体が目映いばかりに輝き始める。それは余りにも神々しく、見る者を怯ませる。咄嗟に二人を止めようと武器を投げるが何かの壁に当たってカラン、と地面に落ちた。
――もう誰にも止められない。
淡い紅の光と蒼の光が天へと竜のように舞い上がる。瞳の色と同じその色は神秘的に見える。そして素早く手を重ね合うと二人は静かに瞳を閉じた。
一つの煌めく光が静かに吸い込まれるように地面へと落ちる。それが起爆剤となって大地ごと盛り上がって爆発を引き起こす。光と共に天へと爆発する姿と天を支配する竜の姿。それはまるで世界の終わりを示しているかのようにも見えた。
「……お姉ちゃん、あれは何?」
ぱたぱたと駆け寄る少女は銀糸を靡かせる。見掛けとは裏腹に意思の強そうな蒼の瞳は真っ直ぐと煌々と燃え上がる遠くの森を見つめていた。
「大人は子供に宿題を与えるのが好きね」
いつだってそう。大人は私達が無知だと決めつけてその後にやるべき事を残していく。
大人顔負けの考えを持つ十に満たない少女はまだ小さな少年に手を差し伸べた。
「王子達の所へ行こう。どうせつまらない、いざこざよ」
二十一年前の冬、東国レイヴァス王国にて行われた大々的な魔道士狩りは数々の傷跡を残して幕を閉じた。
多くの兵に損害を与えてしまった結果は覆ることがなく、民の不平不満を一層煽ることとなった。家族や友人を失ったり、必死に生き延びようと喘いだ人間達の運命を大きく変えてしまう出来事は史上最悪の出来事と言っても過言ではない。
これはこれから始まる物語に関わる一つのお話。
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