月光のラナンキュラス
Act.1 綻ぶ糸
紅の雫が落ちて、消えるように地面へと吸い込まれていく。消え行くそれを哀れと思わずに女性は柔らかに微笑んだ。溢れる金糸を耳に掛け、慈愛に満ちた天空のような蒼の瞳を細めた。美しく朱を引いた唇はそっと静かに囁く。
『―――――』
鈴の様な声音に誰もが振り返るが、その言葉は誰にも聞き取れない。そして彼女は手を差し伸べた。解放される日はもうそこまで来ている、と。紅は人の血だけではない、正義と勇気の象徴――世界を変える色。
――世界を、未来を、解き放て。
*
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何処か靄に包まれたような光景が一瞬にして消え去る。呆気ない程に簡単に消えてしまった光景に何処か名残惜しささえ覚えるが直ぐに泡のように消え去った。辺りを見回せば都会とは言えないが田舎ではない中都市の街並み。だが、そこは異様なほどの静けさを保っていた。
異形の者に脅える人々。半ば魔物に支配されつつある哀れな街。彼は手に持っていた大剣を強く握り締めた。不恰好な大剣ではあるが柄には彼の瞳と同じの緑柱石が飾ってあり、美しい装飾が施されている。その剣で幾度も魔物を倒し続ける彼は傭兵である。この二十年近くで急激に増えた魔物から街を守る事や困った人達が持ち込んでくるような依頼まであらゆるものをこなす仕事である。
だが現実を言えば、魔物が急激に増えたと噂するのは彼よりもずっと年長の者ばかり。彼にとってはそれが普通となってしまっており、違和感は全く無い。物心付いたときから魔物は身の回りに蔓延っていた。だからこそ、彼は時折顔を出してこちらの様子を伺ってくる魔物に軽く舌打ちをして、肩を竦める。
「来るなら来いよ。相手してやるぜ」
そういって唇を舐めた。これはいつもの癖。傭兵といえどもいつまで命があるか分からない職業。常に緊張しているため、それを和らげる決まった仕草だ。
「……それ、止めろ」
その言葉にふと顔を上げる。
民家の上から顔を出して、苛ついた表情を浮かべる男性は彼と殆んど似た顔の作りをしている。少し違うとすれば少し色の薄い瞳の色くらい。青碧の瞳を持った男性は立ち上がると辺りを見回す。比較的高い場所に位置する民家の屋根からの景色は街を殆んど一望することが出来るのだ。
「……囲まれてると来たか」
「何匹くらい居る?」
只でさえ切れ長の瞳を更に鋭くして頭数を数え始める。物陰に隠れているものも丸見えな為に数えやすい。彼はふと息を吐くと下に向かって声を掛ける。
「十、だな」
腰に携えた剣は大きいと言うよりも長いという印象が強い。柄の先端に輝くのは彼の瞳と同じ色を持つ青碧色の玉。
「エリク、いつも通りでいいな?」
「ほいほーい」
何ともお気楽な返事をして地面を蹴る萌葱色の瞳の彼――エリクを見送ると彼は長剣を利き手に持ち替えて暫く様子を伺っていた。先に駆け出したエリクと言えば巨大な大剣を片手に魔物と擦れ違う。ただ素通りをしただけかと思えば力なく地面に倒れ伏す魔物の姿があった。彼の勇猛な行動に驚き、戸惑いを隠せない魔物の姿を見ればそんなに力は無いのだろう。集団になって逃げまどうその光景にエリクはふと口角を上げると大剣を一閃する。軽い衝撃波を起こす剣圧に吹き飛ばされ壁や地面に吹き飛ばされる魔物は力なくそのまま動かない。
(……心配はないか)
魔物を圧倒する力量は予想よりも遙かに強い。自分よりも二年しか遅れてこの仕事は始めていないというのに自分と同等の能力を持つエリクの姿にふと笑みを浮かべる。――やはり血は争えない、と。彼はふと息を吐き、精神を集中させると彼の後を追いかけた。
彼もまた刀身の長い長剣を器用に扱いながら道を塞ごうとする魔物を切り裂いていく。だけども逃げまどう魔物達は何故か彼を見つけると足を止めて隙を伺っていた。恐らくエリクよりも破壊どの低い武器を扱っているからだろう。そんなことも露知らず、鍛え抜かれた刀身は日の光を受け、見事な輝きを放っていた。
腕を強く引くと切っ先を一匹の魔物の喉を目指す。彼は素早く一歩強く踏み込むとそのままの体勢で大きく剣を振るった。素早い剣撃は軽い衝撃波を生み出す。それに驚いて思わず飛び退いた魔物に隙を見い出すと次々に切り裂いていった。
「狙うものを間違えたな」
そう呟いて見下ろすその視線の先には幾重にも折り重なった死体の山。彼は軽く剣を振るって血を拭うと鞘へ収めた。
「兄貴!」
だんだんと激しい足音を立てながら屋根を飛び移る姿。剣を背の鞘に納めている姿から地上にいた魔物達は彼に倒されたようだ。エリクは兄によって倒された魔物の死体に嫌悪感を浮かべながら見下ろす。つい先程まで動いていたとは思えないほど強烈な腐臭に思わず鼻を摘まんだ。
そんな弟の姿を一瞥すると死体に背を向ける。余り長く死体の側に居ると何故だか頭痛がしてくる。勿論、それは良くない事だと分かっている。死人の気に晒されて生きる気力を奪われてしまう。だからこそ、埋葬を行って大地に死体を還すのだ。
「エリク……?」
いつまで経っても付いてくる気配の無い弟に溜め息を吐きながら振り返る。いつもならば絶え間無く喋る彼が異様な程に静かだったからだ。
視線の先にあったのは死体を見つめるエリクの姿。否、自分の指先を見つめている。その指先にあるのは紅の石をはめこんである指輪は国家登録された傭兵の証。それは装飾で身に付ける指輪よりも大きく、飾りには向いていない。それをじっと見つめたままのエリクの肩を乱暴に掴んだ。
「うわ! ……なんだよ」
自分よりも大きめの体をびくりと震わせて驚いた表情を見せるエリク。心配してやってるのにと苦々しい表情を浮かべている彼に慌ててエリクは弁解し始めた。
「いや、指輪をしてると剣が持ちにくいだろ? それで外してみたらすっごい耳鳴りがしてさ……はめなおしたら、なんか落ち着いてきた」
その言葉に顔をしかめた時、風が強く吹いて、左耳につけた深紅のピアスがふわりと揺れた。傭兵の証として身に付けている指輪は傭兵になってから外したことは無い。気の所為だろ、と呟いて彼は街を後にした。
その後、静けさを取り戻した町は切り刻まれた多くの魔物を目にする羽目となった。たった二人であの数の魔物を、と感嘆の息を漏らす男性や首だけの死体に悲鳴を上げる女性。過ぎた能力の行く末を案じる老人。考えの違う彼らでも最終的に言うことは同じだった。
『彼等こそ、国一の騎士』
傭兵は民のための騎士。騎士とは王を守るための兵。そういった認識のあるアルディード帝国において、傭兵とは憧れの職業なのである。況してや、田舎に住む子ども達は尚更畏敬の念が大きい。二人が去った後の街は少し荒っぽい、だけれど優しい風が駆け抜けていった。
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