月光のラナンキュラス
Act.5 魔物の住む村、サラサ
『ねぇ、覚えてる?』
女性は何処か嬉しそうに微笑む。その腕に産まれたばかりの赤子を抱きながら眠る表情を愛おしそうに見つめる姿は既に母だった。閉じられた瞳の色は分からないが微かに生えている髪は黄色みを帯びた茶色。
『私と貴方が初めて会った日』
偶然出会った人がこんなにも近しい人になるなんてきっと運命よね。にっこりと微笑む彼女にそうかもしれないな、とだけ呟いた。擦れ違った人も挨拶した人も。今日出会った人達は何かで繋がってるのかもしれない。それが本当なら今宵生まれた新たな命にも幸せな偶然が訪れるように。そう祈った日は雪が深々と降り積もる静かな朝だった。
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馬を出してから半刻程経つ。強くなる日差しを木の葉が覆い隠してくれるお陰でこれだけ馬を疾走させているにも関わらず汗一つ流すことはない。微かに漂う冷気のような気配を感じながらテオフィールは先導するフィリーネを追い掛けるが、感じる冷気は澄み切っていると言うよりも濁っていると表現した方が近かった。
「聖泉の力が濁って感じる。魔物が結界を破ったようだな」
彼女の言葉からあの涼しいものはどうやら聖泉の力だったらしい。ならば、恐らく澱みは魔物の存在と言うことだろう。――まとわりつくような、嫌な感覚。
「そんなに強い魔物ってことか?」
聖泉とは人々が密集する地域に湧き出ている聖なる泉の事である、というよりも聖泉の湧き出る場所に人々が集まったといった方が正しいだろう。聖泉はこの世界にある三つの国を生み出した女神の加護を得ているとされ、魔物を寄せ付けない作用がある。尤も、他の国に聖泉があるとは聞いたことが無い。だが、一般的に聖泉が侵される時と言うのは余りにも強い魔物が居たとき、または聖泉の力がある理由で弱まったから、その二つしか考えられない。
エリクといえばは馬を降りると森の奥に目を凝らす。どうやらこの先は馬では行けないらしい。荒れた岩や石、更には蔓や蔦が入り組んでおり無理に進めば蹄や馬を傷つけかねない。
「兎に角急がなくては、村が滅びてしまう前に」
「時間がないが……選択肢がないな」
薄暗く染まった細道を躊躇なく歩み始めたのはテオフィール。片手に剣を握り、前を遮る蔦を切りながら微かに見える光に眼を凝らす、幸いなことに一本道のため、迷うことはなさそうだ。
「夜中には歩きたくない場所だよなー」
思わず漏らしたエリクがけらけらと笑う。
こんな狭い山道で暗くて足元がぼんやりとしか定まらない。もしも後ろから襲われたら武器など怖くて振れないだろう。するとフィリーネがふと足を止めた。漆黒の瞳は見開かれ、彼を凝視している。そんな瞳で見つめられたら恥ずかしいじゃないか、と頭を掻くとテオフィールは呆れたように舌打ちをした。
「嫌な予感、しないのか?」
勿論嫌な予感は此処に入れば誰でもするだろ、と言いかけたときその表情は硬直した。背中に感じる圧迫感、何回も感じたことのある気配に恐る恐る視線を後に向ける。真後ろに佇んでいたのは獣型の魔物。目が合った途端に低い唸り声を上げるものだから一瞬にしてエリクの表情から笑みが消えた。
「冗談かました俺が馬鹿でした」
「間抜けが」
短く吐き捨てたテオフィールの言葉を合図に一斉に走り出す三人。そして逃がさまいと追い掛ける魔物。テオフィールとエリクの持っている武器は各々長剣と大剣。どちらもリーチが長くこんな場所で振ったら木に刺さって抜けなくなる。直ぐさま腰元に備えていた短剣に切り替えて蔦を切り裂きながら道を切り開いていく。光の入る場所に飛び込むように体当たりをすると落ち葉の絨毯に投げ出された。咄嗟に受け身を取って体勢を整えると長剣を抜き払った。
村に入るまでどうしても振り切るか、退治するしかない。テオフィールが切り開いた道から飛び出してきた瞬間、エリクが持っていた大剣で
魔物を斬り上げる。それを狙ってフィリーネが矢を打ち込むのを合図にテオフィールは高く飛び上がると宙で勢い任せに両断してみせた。
「全く、良いタイミングで襲ってくるな」
息を切らせたテオフィールは忌々しそうに魔物を見下ろすと剣を引き抜いた。ちゃり、という音と共に青碧の宝玉が揺れた。
「レイヴァス国境付近だからな……魔物が入り込んで居るんだろうな」
「国交を断って何十年って国だろ? 行ったものは誰も帰ってこない死者の国だとかって聞いたけど」
その言葉にフィリーネはそっと首を振る。確かに国交を断ってからは二十年程建っている筈だ。だけどもエリクの言うような死者の国というのは噂に過ぎない。
「死者の国、な。だが、あの国は生きている……辛うじてだが」
太陽が覗くことがない灰色の空の下で人々は生きている。同じ大陸に住むと言っても女神がもたらした加護の性質が違う。あの国はその加護があっても不安定極まりないが――。
そんな彼女に何も問うことなく、二人は無言のまま剣を収める。それに習ってフィリーネも矢筒を背負いなおすと先に歩き始めたテオフィールの背を追いかけた。
無言のままの三人を迎えたのは自然に作られたらしい木の門、それは彼らを迎えるように両手を広げているように見える。だけども、魔物に怯えきった村人がそう簡単に彼らを招き入れる筈がなかった。
「貴様等、何者だ!」
竹槍を握り締めた頼りなさそうな青年達が彼等の姿を見るなり構えを取る。テオフィールの耳には微かに何でこんな目ばかり合うんだ、と今にも肩を落とさんばかりのエリクの声が聞こえたような気がした。そんな状況を打破しようとフィリーネが前へ出るが竹槍はずっと喉元を狙い続ける。
「私達は帝都から派遣されて来た者です」
柔らかな声音で語りかける彼女に突きつけられた竹槍が一瞬震える。できれば丸く収めたいが見つめてくる瞳は恐怖で怯えきっていた。たが、青年達の張り詰めた緊張感は少しでも怪しい素振りを見せれば直ぐに突き刺してやると言うのが見て取れた。困ったなと頭を悩ませて見せるフィリーネ。それはこれ以上どうしようも無いと白旗を振っているのと同じだった。
「リーネ殿? ……リーネ殿ではないですか!」
竹槍を構える男達の後ろから現れたのは背の高い大男。焦茶の髪を全て後ろに流すことでどうにかして収めているらしいが所々に寝癖らしきものが見える。身長だけ比較するとエリクが小さく見えた。
「アルベルト殿……」
「若い奴等が失礼なことをしまして。直ぐに俺が中に案内します。村長は自宅で待機してますので」
この大男――アルベルトはどうやら村長ではなく村の重役のようだ。着ている服は隣で小さくなっている若者達よりも幾分良いものに見える。フィリーネは軽く礼を言うと二人に向かって着いてこい、と合図した。テオフィールとエリクがちらりと若者達を見たとき、彼等は慌てて目を反らすように深々と頭を下げていた。
「俺達と変わらない年代だな。小さく見えるけど」
「村を出たことが無いんだろ? それは俺達が奇妙に見えるだろうさ」
そうかなと呟くエリクに無理矢理そうなんだ、と押し付けるように言い、先を歩く二人を追い掛けた。辺りは煉瓦造りの家が多く、木造のは一件か二件ほどしか無い。丁寧に整えられている花壇に思わず目を奪われる。
「テオフィール殿、エリク殿、此方へ」
案内役のアルベルトに声を掛けられフィリーネの隣に立てば彼は低いながらもはっきりした声音で彼らに語り始めた。
「この村は幾度も魔物が侵入し、村人が犠牲となっているので気が立っています。そして……彼女の事はリーネ、と」
「立場をばらしたくないんでな。知っているのはアルベルト殿と村長だけだ」
恐れ多いのですがと眉を下げるアルベルトは意外にも礼儀正しいらしい。三人を村長のいるという家へ案内すると彼は若者達を指導するのでと一礼し、再び門へと戻って行った。
「それにしても『リーネ』ね。そのままじゃねぇか」
ふと笑って見せるエリクを一瞥すると苛ついた表情を浮かべる。ただ、本名と結び付かなければ良いと思っただけだと呟いた彼女は真っ直ぐ扉へと足を向けた。
「何か聞こえるな」
扉に近付かずに腕を組んだテオフィールは首を傾げながら耳を済ませる。その言葉に何処か嬉しそうな顔をしたエリクはフィリーネの横に並ぶと扉に耳を当ててその声を聞き取ろうとした瞬間だった。
「もう知らないわ!! お父さんなんか大っ嫌い!」
気迫のある言葉と共に勢いよく扉が開かれる。飛び出してきた金糸の少女をに目を奪われたエリクは勢いの止まらない扉を顔面に受けてフィリーネの方に倒れ込んだ。これは痛そうだなと眉を顰め、倒れ込んだ弟を眺める。すると自分を見上げる視線に漸く気付いて目を向けた。
自分を真っ直ぐ見つめてくる透き通った猩々緋の瞳。何処か見透かされているような気分が拭えなかったが声を掛けようとした瞬間に少女はくるりと背を向けて走り去っていった。
「エリク、起きろ! ……ったく、自業自得だ!」
彼女の両腕に辛うじて支えられているエリクは何ともいたたまれない姿で伸びきっていたのだった。
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