月光のラナンキュラス
Act.7 聖泉の破壊者
もうすぐだよ、と告げる声がする。
後には戻れないよと麗しき人は艶やかな唇にそっと弧を描いて笑う。血のように赤い瞳は鋭く嗤う。風もないのに靡く髪は見たこともない紫紺の色。それは余りにも美しすぎて逆に怖い。その人が背を向けると巨大な羽が両腕を広げるようにその姿を誇示していた。そしてふと思う、本当に見たことが無いのか――。
締め切られたカーテンの向こうに顔を出した日差しが微かに見える。彼は寝癖の付いた頭をぶっきらぼうに掻くと寝台から立ち上がり、カーテンを開けた。外は妙な緊張感が漂い、人一人確認することが出来ない。テオフィールは愛用している傭兵の上着に袖を通し、長剣を手にすると颯爽と部屋を出た。
「あー、やっと起きた」
部屋を出て一番に声を掛けたのはエリク。朝起きるのが得意とは言えない彼にしては早起きな方だ。恐らく、仕事を前にして早く目が覚めてしまったのだろう。質素な食卓の上には真っ白な杯が一つ置かれているだけ。中身は珈琲らしく、香ばしい匂いが漂う。
「今日の計画は決まっているんだろ?」
「勿論。村人を自宅から出ないようにさせ、偵察に向かうぞ」
近くに丸めてあった地図を広げる。それはサラサの村近郊を描いた地図。かなり事細かに描いてあるのが何よりの助けだ。特にこの付近は森で覆われていて地の利がある者でないと優位に立つのは難しい。
「二手に別れて行動する。お前はフィリーネと組んで村の回り、俺は一人で中に居る。何かあれば笛を吹け」
そう言って上着の懐から小さな飾りのような笛を取り出すとエリクに投げた。 白銀に輝く笛は掌に簡単に収まるほど小さいが所々に傷を持っていて長く使われているように見える。
「あ、それ綺麗!」
鼻を擽る刺激的な珈琲の香りと共に現れたのはフィリーネとイーナ。エリクが持つ笛を覗き込むように見つめると瞳をきらきらと輝かせている。金銀、装飾は女性の目を引きつける、昔からそう言われるのは本当だな、と肩を竦ませるテオフィール。勿論、それはフィリーネも例外では無かったらしく笛を一瞥し、柔らかな笑顔を浮かべると一言、美しいわと呟いた。
「偵察とは言えどもでも気は抜くな。人肉を食した魔物は剣が効かないかもしれない」
「それは心配ない。私の魔法で何とかする」
一緒に入れば最悪の事態は免れる筈。それに弓であれば遠距離の攻撃も容易く行える。簡単に気を込めるだけでその能力を扱うことが出来たが今回はそうはいかないだろう。アルディード王族の持つ聖歌魔術を使う時が来たのだ。そう思うとらしからぬ緊張に手が微かに震えた。
「リーネも魔法が……?」
少し驚いたような顔をするイーナの顔を暫く見つめてはっと黒曜石の瞳を見開く。自分からその身分は隠すと言っておきながら自ら明かしてしまったのだ。呆れたように溜息を付いたテオフィールはエリクに視線を向けるがあまりにも不自然に此方を見ない。良い機転でも利かすと思いきやこの様。彼は仕方なくぼそりと一言だけ呟いた。
「魔法は魔法でもちゃんと使える魔法だと良いな」
「……善処しよう」
まるで二人にしか分からないやりとり。イーナは不思議そうにエリクを見ると彼はにやりと笑い、大剣を片手に空いた方の手をひらひらさせて彼女の視線を自分に注目させる。
「ほーれ、種も仕掛けもございませーん」
大剣を鞘に収めたまま両手で器用にくるくる回すとイーナに杖を渡すように促す。それを楽しそうに手渡すと好奇心一杯の瞳で見つめてくる彼女に何もしない訳にはいかなかった。成功することを祈って剣を手の中でくるりと回した。
「ほいっ!」
手にしていた筈なのは杖と大剣なのに大剣だけが見当たらない。万歳をしてイーナの杖だけ握りしめるエリクの顔は弱冠強ばっていた。
「えー、なんでなんで!?」
「へっへっへ、秘密だよーん」
種をばらしたらつまんないだろ、と笑うエリクに頬を膨らませる。だが、その種は直ぐに分かることとなった。
「今度やるなら俺を使うなよ」
テオフィールの手にはエリクが持っていたはずの大剣。いつの間にそんなところに、と呟けばフィリーネはくすくすと笑う。
「いきなり投げたの……びっくりしたわ」
「俺の技術と兄貴の反射神経の賜物だぜ!」
「はっ……村を見てくる」
呆れたようにそう言って立ち上がったテオフィールは時計に目を向ける。時間はまだ昼前、行動を起こすには少し早すぎる。ならば村の造りを頭に叩き込むしか時間を潰す方法は思い付かない。
「なら、私も一緒に行く! 案内役が必要でしょう?」
意気揚々と瞳を輝かせるイーナ。確かに案内役が居るに越したことはないがとエリクに視線で助けを求めるが彼は手をひらひらさせて遠慮します、と意思表示をしてしまっている。苦し紛れにフィリーネの方を見れば態とらしく弓の調節をし始める。仕方がないと諦めて心を決める。彼とてイーナと話したくない訳では無い。ただ沈黙を許せる仲に頼っていた為にそれが一仕事に感じてしまうのだ。
「じゃあ、決まり!」
少し待っててねと笑うと彼女はぱたぱたと階段を駆け上がっていった。
「そんな嫌な顔をしなくたっていいじゃん、兄貴」
「別に嫌な顔は……」
これも仕事の一つ。把握をするのには案内人がいなければ始まらない。そう心に決めるのはいいが、どうしても昨日の出来事が頭から離れる事は無かった。何故、あの時彼女は自分に手を伸ばしたのだろう、と。特に彼も引っかかる事は無かったが自分を見つめる猩々緋が確かに孤独を映していた。
「お待たせ、行こっか!」
いつの間にか戻ってきていたイーナにふと眼を向けると不意に腕を絡められる。その様子を見たエリクは思わず呆然と口を開ける。意気揚々と家を出るイーナに引っ張られながら付いていくテオフィール。それから暫くして漸くエリクは我に返る。目の前に座って紅茶を啜るフィリーネを見ながら彼は口をぱくぱくさせた。
「おま……!」
「私が他人の気持ちを読み取れるというのならノー。ただ察したと言うのならイエスだ」
真面目な顔つきで平然として言ってのける彼女に肩を竦めるエリク。だが、フィリーネ自身にも何か引っ掛かるものがあった。寄り添い、笑い合いながら話す二人。その情景が何故出てくるのかは分からなかった。だけど必ず、女性は涙を流して終わる。
――気付いたらもう、戻れない。
+++++++++
朝はしんと静まりかえっていた村だが人々は窓から外の様子を伺ったりして落ち着かないようだ。そんな中を二人の男女が進んでいくのはとても不自然な光景だろう。テオフィールは辺りを隈無く眼を向ける。家が建ち並ぶ間には田畑が大きく揺れている。その和やかな光景にどうやって魔物が入ってくるのか些か疑問に思っていた。
「ねぇ、テオ?」
遠慮がちに声を掛けるイーナに眼を向けると彼女は不安そうな顔をしていた。無理もない。今日は新月の日。魔物が現れると分かっているのだ、怯えない訳がない。
「もし……失敗したらどうなるの?」
「俺たちは死ぬ、それだけだ」
猩々緋の瞳が微かに揺れた。勿論それは考えている。常に死と隣り合わせで戦ってきた自分たち。また、騎士として戦ってきたフィリーネも覚悟は同じだろう。武器を持つ者は戦いで死ぬ、そういう運命(さだめ)だと幼い頃から言い聞かされてきた。
「そう……だよね」
そう言って彼女は持っていた杖を握りしめた。自分にしっかりとした魔法が使えれば一緒に村を守る事が出来たかもしれない、それよりも魔物を引き寄せることは無かったのかも。それを考えると悔しかった。
女神達は炎や氷、時には雷を放ったりして戦を切り抜けたと言われている。本当ならそんな力は無い方が良い。だけど―――。
「俺たちだって生半可な覚悟をしている訳ではない。勝つ、そう思ったから此処まで来たんだ」
勝利を確信すれば勝機は得られる、全てはそこから。死と生は表裏一体。引き離そうとしてもどこまでも着いてくる。二人の父親はいつも上に立つ者の大切さ、心構えを説いてきた。
『お前達が将来どうなろうと、役に立つ』
そう言う父の瞳はとても優しかったのが印象的だった。
テオフィールはふと天を仰いだ。陽は作戦を実行に移す丁度良い時刻を示している。イーナはそれを察するとふわりと微笑んだ。
既に村に人影は無く、外の様子を伺う者も居ない。村長の指示が細部まで行き渡ったのだろう。二人は早足で戻ると勢いよく扉を開いた。其処にいたのは既に支度を調えたエリクとフィリーネ。身軽さを保つ為に外套を外したフィリーネは細身ではあるが、戦いが出来るほどしっかりとした力は付いているように見える。
「じゃあ行って来るぜ」
慣れた手つきで襟元を正し、大剣を背負うエリクにテオフィールは静かに頷いた。随分と簡単な挨拶だなとフィリーネは肩を竦めて見せると美しい弧を描く弓を手に取る。
まるで旅にでも行くような二人の姿は遠く消え行くのは呆気なかった。だがその光景に躊躇無く背を向けたテオフィールの腕をイーナは咄嗟に掴んだ。
「何か、私に出来ることは無い?」
少し驚いたような顔をする彼はそっと笑っただけだった。それは赤子を宥めるような笑み。ただそれを浮かべただけで彼は長剣を手にすると出ていった。これ程寂しいと思ったことはない。彼の顔はまるで死ぬ前に見たエレナの笑顔のようだったから。
+++++++++
月の光は無い。夜の空を飾るのは灰色に染まった綿のような雲だけ。一寸先は闇の様な森の中で普通に歩くことは困難。
エリクは大剣で覆い繁る植物を凪ぎ払って、上手く道を作り出しながらいつもと違う鋭い瞳を辺りに向けていた。森は様々な生物が棲むためにあらゆる気配が飛び交い、純粋な敵意が混ざってしまって分かりにくい。だが、此方にも利は多少なりともある。強い魔力を求めてやってくる魔物も敢えて魔力を押さえないフィリーネが居ることによって少しは混乱して村に近寄ることはない筈だ。魔物の視線を此方に惹き付けられれば、二人はそれだけを気にしていた。
「獣道とはこの事だな」
「少しでも広い所に出ないと襲われたときに対処できない……急ぎましょう」
そうだな、と呟いた彼は少し歩く速度を早める。だが、二人が身に迫る危険に気付くのが余りにも遅すぎた。急に沸いて出たように感じる殺気。それを背中から強烈に感じたときは我を疑った。
咄嗟に振り向いて手に持っていた鏃(やじり)を向けたのはエリクも同時。紅の瞳を向けてくる視線が余りにも強烈で目眩さえする。大剣を突きつける彼にもそれは感じているのだろう。汗が一筋流れた。瞬時に地面を蹴るエリクは巨大な剣を諸ともせずに素早い動きで魔物に斬りかかる。
暗闇で良く正体は分からなかったがそれはどうやら獅子らしい。徐に爪を彼に向けると意図も簡単に剣を受け止めてみせると低い唸り声を上げて威嚇を始めた。四肢を両断してしまえば抵抗は無いだろうがあの鋭い爪に対抗する術は無いに等しい。
彼が眉を釣り上げた時、何処からか声が聞こえた。叫び声ではない優しい声。軽やかな旋律で言葉を紡ぐそれは紛れも無く歌。
巨大な地響きと共に獅子の足元に現れたのは巨大な魔方陣。それは魔物の動きを縛するとどうやら縛り上げているようにも見えた。
「フィリーネ……?」
かちゃりと剣が地面に突き刺さる。振り向いた先にいたのは確かに彼女。だが、早口で紡いでいく言葉はまるで異国の言葉に聞こえる。
これが正統な聖歌魔術。
獅子を縛っていた魔方陣は次第に膨張し、眩い光が爆発した。
それはまるで映像を見ているようで目の前にその術が展開されているという実感はまるでない。目に見えて疲労しているフィリーネは思わず膝を付く。だが、エリクは剣を片手に素早く彼女に走り寄り、抱え上げるとその場から逃げるように走り出した。
「エリク! 離せ!!」
「あいつ、死んでないぞ」
そんな筈はないと言う彼女は顔を上げる。尋常ではない早さで駆け抜けるエリクを追い掛ける獅子の姿に思わず喫驚した。傷も血も何一つ着いていない。ただ紅の瞳は怒りに燃え上がっている。
「何故だ……!?」
「取り敢えず彼奴の強さは半端じゃない! 魔法も効かない魔物なんか魔物じゃないぜ!」
そうだ、とフィリーネは何かを思い付いたように呟いた。魔法は邪なる者を滅するためにある。それなのに致命傷も与えられない。その理由はただ一つ。
「お前の言う通りだ。……あれは魔物じゃない」
彼女を支えるエリクの手に力が籠る。大剣が唸りを上げて木を斬り倒した。それは彼が走り去った直後に地面に倒れると獅子の進路を上手い具合に妨げる。
「下ろして、私は平気だから」
尚も走り続けるエリクに制するように言うが彼は譲らない。広い場所を求めてただ走るだけ。
「あれが魔物じゃないなら証明できるんだろ?」
ふと足を緩めたエリクはフィリーネを下ろすと辺りを見回した。青緑に輝く泉は月も無いのに美しい輝きを放っている。
「お前の言葉で気付かされた。あれは影だ。魔術の光に照らされていると言うのに影も出来ない。明らかにおかしい!」
「なら本体は……!」
そこまで言って漸く気が付いた。狙った魔力を探し求める為に紛らわしいフィリーネを引き離したのだ。今は当然サラサの村に侵入しているかもしれない。
そして影ならば―――。
「聖泉の影響は受けることはない」
そう言って振り向けば予想通りの姿。怒りに燃え上がって毛が逆立っているようにも見える。再び剣を構えたエリクに正気かと呟く。魔法が効かないと言うのなら剣も効く筈はないと言うのに。
だが、彼とて幾戦も魔物とやりあって来た熟練の傭兵という誇りがある。
「先に行け! 俺じゃ接近戦しか出来ないし、魔法も使えない! 兄貴に逸早く加勢できるのはお前だ、フィリーネ!」
切っ先をぶらすこと無く突き付けたままのエリク。彼の見せた気迫は切羽詰まったものだろう。フィリーネは歯を食い縛ると勢い良く駆け出した。次第に遠くなりつつある足音。消えていく姿を気配だけで感じとると彼はすっと息を吐き出した。
「実は一番頼りにしてたんだけどな」
そう言ってふと口角を上げる。無謀な戦いを挑んでいる理由はただ一つ。もう悲しむ姿は誰も見たくないのだ。彼は大きく息を吸い込むと構えた大剣を大きく振るう。しかし、獅子は後ろへと素早く飛び退いて低い唸り声を上げる。攻撃は当たらないし、かすったとしても獅子が怯むわけではない。エリクは少しずつ後退しながら何回も足で地面を叩き、足場を確かめた。此処で転んだら本当に洒落にならない。
彼は獅子が動き出す瞬間に強く地面を蹴った。二本足の動物が四本足の動物に勝てる訳がない。それでも必死に森林地帯を駆け抜ける。かちゃり、と萌葱色の宝玉が鳴った気がした。
+++++++++
雲の所為で月がない夜は酷く不気味に感じる。全てが暗闇で輝くものがまるで見当たらない。ただ、細々と燃え上がる炎の光を頼りにするだけ。テオフィールは抜き身の長剣を片手に一歩ずつ慎重に辺りを見回した。彼の剣はエリクの大剣よりも小さく見えるが普通の剣よりも刀身が長く、柄には彼の瞳と同じ青碧の水晶が輝いている。普通の剣よりも手に馴染んでいて愛用している。傭兵になった記念に父親から貰ったエリクの剣とは対の記念の剣だった。
そういえば、もう二人が村の外に出て一時間近くが立つのだろうか。現れても良い筈の魔物の気配もない。まるで嵐の前の静けさのようである。だが、その静けさも瞬く間に終わりを告げた。急に降って湧いたかのように背筋に冷たいものが走り、不快な耳鳴りが鳴り響く。剣を両手で握りしめると視線だけを動かして姿を探すが何処にも見当たらない。火の灯りが届かない暗闇でずっと息を殺していたのだろう。だけども微かにほくそ笑んだ獅子の敗けだった。
彼は咄嗟に振り向き様、大きく剣を振るう。だけども、それは大きな獣の手によって弾き返されてしまう。自分よりも大きいのではと思うくらいの漆黒の獅子。縦に入った瞳孔が獲物を確認していた。
「二人は……一体」
誰に問うでもない声は虚しく消える。ゆっくりと一歩一歩着実に前に進んでくる獅子を前に体が鉛の様に重くなった。 今まで対峙してきた魔物とは比べ物にならない気迫。思わず息苦しさに首を押さえるテオフィール。
だが、そのままでいるつもりは勿論無い。彼は体を起こしたまま剣を斜め下に下げた。無闇に仕掛けても弾き返されるだけ。どうにかして魔物を葬らねばならない。聖泉まで誘き寄せて突き落とすか。しかし、神聖な影響を全く受けずにこの村まで足を踏み入れた獅子にはただの水でしかない、そんな獅子に苛立って眉を潜める。
獅子は泳がせていた瞳を彼に向けると低く唸る。まるでお前を探しに来たのではないと言いたそうだがそうもいかない、手が白くなるほど剣を握りしめた。獅子はしなやかな肢体を高々と跳躍させる。とん、と軽い音を立てて着地する獅子に対して正面を向く。睨み合う様子が続けば相手も出方を考えるだろうと思ったが生憎、そう簡単にはいかない。
獅子は素早く彼の後ろへ回り込むと不意を突いて体ごとぶつかってくる。大きな体の割には素早く、威力のある攻撃をしてくると考えながら加えられた力に反すること無くそのまま地面に手を突いて体を回転させる。
すとん、と華麗な着地を決めたテオフィールに獅子も予想外だったのだろう、瞳を此方に向けたまま動かない。それを逃す彼ではなかった。素早く間合いを詰めると獣の弱点を突く為に大きく振り被る。人間の持つ鉄の武器の匂いをかぎ分け、更に欲しい魔力をさがしだす大切な感覚、それが嗅覚。それを使用不能の状態にしてしまえば此方が有利になると踏んだのだ。だが、剣の切っ先が触れる前に獅子は忽然と姿を消した、それと同時に背中に焼けつくような痛みが走った。
「ぐ……!」
急激に熱くなる背中に必死に耐えていたが思わず膝を付く。背後に回り込んでいる獅子は追撃してくるかと思いきや、まるで猫のように顔を撫でて――否、手にこびりついた血を一心不乱に舐め取っている。
彼はそのまま動かない獅子を一瞥すると切り裂かれた紺のジャケットを脱いで放り投げた。その音にふと我に返った獅子は再び低く構える。鋭かった瞳は若干だが酔っているように見えるのは気のせいだろうか。
「手間を掛けさせやがって……!」
焼け付く痛みに精神状態を追い込んで気力に変えていく。少しでも素早く動くことが出来なければ死が訪れる。極限状態と言うのは人間に最高の力を与えてくれる。彼は素早く地面を蹴ると獅子の正面を取って嗅覚を司る鼻に斬りつけた。悲鳴をあげて鼻を地面に擦り付ける獅子に更に追撃するために背後を取ると鋭い突きを繰り出して肉を裂く。
だが、彼の反撃は此処までだった。
再び怒り狂った獅子は両手の爪を向き出しにし、飛びかかってくる。咄嗟に長剣で庇おうとするが獅子の爪が悉く剣を弾き飛ばし、テオフィールを地面に叩き付けた。
「テオフィール!」
微かに視界が暗くなり、じんわりと色の鮮明さが失われていく。何処からか自分を呼ぶ声に応えようとするが腕は力無く垂れるだけ。どうにかして決定的な一打を与えなくては犠牲が出てしまう。
フィリーネは矢をつがえるとゆっくりと呼吸をする。自分に出来るのは秘めた力の解放。だが、それは余りにも強力すぎて抑制できないのが実情。
「古の女神よ、私に力を!」
凛とした声が空に響き渡る。弓弦を最大限にまで引いて狙いを定める。その時、微かに耳元で女性が歌う声がした。柔らかく、暖かな旋律。余裕のあるビブラートが彼女を包み込むようだった。ふと視線を向ければ優しく微笑む黒曜石の瞳。まるでそれは鏡を見ているよう。
女性はフィリーネに誘うように獅子に指を差した。
『貴方なら、出来る』
アルトの声音に強く頷き、矢を支える指をそっと離した。矢は弧を描かず、まるで吸い寄せられるように獅子の瞳を貫き、光を放つ。まるで空に同化するように蛍のような光となって消えていく獅子の体。儚いその存在はまるで無かったかのように血さえも残しては行かなかった。
『ほらね?』
期待していた通り、と笑った女性は迷い無くフィリーネに向かって歩くと吸い込まれる様に消えた。あれは幻だったのだろうか、だが確かに存在を感じていたのに。
「兄貴、大丈夫か!」
何処からともなく駆け付けてきたエリクは真っ先にテオフィールを揺り動かす。微かに開いた瞳は力無くぼんやりと弟の姿を見つめていた。
「……魔物は」
「心配はいらない、滅した」
フィリーネの答えにそうか、と呟くテオフィールだが時折痛みに顔を歪める。どうやら体を酷使しすぎたらしい。エリクが担ごうとするものの激痛の余り悲鳴とまではいかないものの呻き声をあげていた。
「これじゃあ何も出来ないぜ? ったく、無理するからだ!」
その時、突然バタンという音が響く。視線を向ければ無表情な顔でつかつかと歩み寄ってくる金糸の少女、イーナ。その手に持っているのは青玉を埋め込んだ柄の長い杖。彼女は何も言わずにテオフィールの側に膝を付くと杖を抱き締めるようにして瞳を閉じた。
「《―――万物を支配する精霊に乞い願う。我が名と血の元に力を引き出せ》」
かっと見開いた猩々緋の瞳が光輝いたた様に見えたのはきっと気のせいではない。まるで何かが憑依したような彼女を誰も止めることはしなかった。淡い水色の光がテオフィールを包み込み、傷を閉じていく。まるで、獅子との戦いがなかったことのよう。攻撃による裂かれた服も返り血も全て無くなっていた。
「一体貴方は……」
「時間を凍結させて押し流したの……ごめんね、私役立たずで」
そう言って彼女は意識を手放した。どさりと仰向けに倒れた彼女が放った水色の光は取り巻くように体を包み込みながら杖の青玉に吸い込まれる。村はまるで何事も無かったかのように変わりの無い、眠りに就いたのだった。
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