光のラナンキュラス

Act.8 心と魂を縛る鎖


 赤々と燃える森、ちらつく雪と身も凍るような寒さ、それは何処かで見た景色なのだろうか。空色の優しい瞳を持った女性は切なげに言葉を漏らす。

『ごめんね……これくらいしか出来なくて』

 そう言って目を反らした女性に手を伸ばしてみるが全く届かない。そのまま空を斬って腕は重力に従いばたりと落ちる。そして実感した、これは夢なのだと。



+++++++++



 はっと現実に引き戻される。見開いた猩々緋の瞳からはすっと涙が溢れ落ちた。何故涙が零れたのか分からない。ただ、もの凄く辛かった。なんとかして気を紛らわそうと体を起こしてカーテンを開く。外にはいつもと変わらない人々が往来する姿や子供達が笑う声が響き渡る。あの恐れていた恐怖はもう何処にもないのだと改めて実感すると彼女――イーナは立ち上がった。
 ふらりと部屋を出ればそこにはまるで我が家にいるようにぼんやりと寛いだエリクの姿。彼は直ぐにイーナの姿を捉えるとにっこりと微笑んだ。

「よう! 元気になったみたいだな」

 ぽんぽんと頭を叩くエリクの萌葱の瞳と目が合って思わず微笑む。きっと端から見れば父娘のような体格差に羨望の眼差しを送りながらも彼女は強く頷いた。

「みんな、無事だよね?」

「あぁ、今二人は二階で親父さんと話してるぜ」

 あれだけ犠牲が出るほどの被害をもたらした魔物の獅子。不安だった心は嘘のように晴れている。それは求めていた安らぎに等しかった。責め付けていた自分の心はもう何処にも居ない。そして消えた人は元から居なかったかのように彼女の心に穴を開けていた。

「ありがとな、兄貴の事」

 ふと我に返って振り返れば萌葱の瞳を真っ直ぐにぶつけてくるエリクの姿。脳裏に昨日の残像が蘇るが敢えて首を振ってその光景を掻き消した。

「必死だったの」

 何故か魔法を使ったことに罪悪感を覚えて短くそう言い放ち、階段に一歩足を掛けたイーナは二階へと上がろうとする。その時、はっきりとした言葉を耳が捉えた。

「お前にも感謝するぜ、オルトリンデ」

 そういって中指にはめた指輪に静かに唇を落とすエリク。
 オルトリンデ――それは剣を司る女神の名。戦いの前に戦士達は必ず彼女に勝利を祈るのが伝統である。今でも戦いを行う傭兵達の間では願掛け又は一種の宗教と化しており、本来国の象徴する神であるアルディードを信仰しているのは王族だけと言っても過言ではない。
 エリクの様にあれ程大きな剣を巧みに操ることが出来ても勝利は時の運。この傭兵達はその生死の境を行き来する強い人だと素直に感じた。それでも魔法を使ったことに感じる罪悪感は拭えない。この力の所為で大切な人を、あの人を――。

「私……きっと堪えられない」

 ――失って、そして救った。力があれば出会い、無ければ出会わなかった。何を喜んで何を悲しめば良いのだろう。彼女の思考は既に単純な考えに捕らわれていた。そんな自分の状態に彼女は苦笑を浮かべると足を止めた。階段を上がりきれば目的の部屋は直ぐ其処。それなのにどうしても足は動かなかった。仕方無く、その場に腰を下ろして手摺に頭を預ける。
 あの夜、咄嗟に魔法を使えたのは奇跡に近かった。親友が死んだ時、助けるという気持ちよりも恐怖で心が一杯だったからかもしれない。 人は犠牲の上に成り立つ一番残酷な生き物なのだと思う。そうでなかったら今、自分は此処にいない。そう思って立ち上がった時に嫌みな程までにはっきりと聞こえてきた言葉。  たった一言で自分の心が軋んだ音をだして、皹(ひび)が入った。
 ――ねぇ、神様。何故貴方はそんなにも意地悪なの?

「あの子は私達の子では無い。いつまでもこのままでは駄目なのは分かっているのですが……」

 はっきりと断言した声。それは今まで育ててくれた聞き慣れている父の声。鼻を啜っている音はきっと母だろう。何故そんな事を言うの、と頭が真っ白になる反面、ほんの少しずつ気が付き始めた事実だった。確かに私の髪はあんなに優しい茶色ではなく金色、瞳も空のような青ではなく血の赤。まるで仲の良い家族であったのが仮面を被った他人同士に感じる。そして、全てが偽りに見えた。

「じゃあ、私は誰?」

 ぼそりと呟くと猩々緋の瞳からすっと涙が溢れる。誰も答えてくれる訳ではない。兎に角、その場から逃げたしたかった。階段を乱暴に掛け降りて自分の部屋に飛び込む。居間にいたエリクは何事かと目を見張り、慌てて開けっ放しになっていた扉に駆け寄る前にイーナは乱暴に杖と何かを掴むと窓から外に飛び出した。

「お、おい、待てよ!」

 慌ててその後を追おうとすると腕を強く引かれた。離せ、と半ば怒鳴りそうになるのをぐっと堪えるが声だけは変えることは出来なかった。

「何で止めるんだッ!!」

 まるで今にも噛みつかんばかりに訴える彼に怯む事なくフィリーネは更に腕を掴む手に力を込めた。

「私達の任務は終わった」

「だからってあの子、何かあったから急に出ていったんだろ!?」

 それまで冷静に説得しようとしていた彼女も怒鳴られた衝撃に怒りに顔を歪める。

「私達にあの子を宥める義理も何も無い! 感情に流されるなら傭兵など辞めなさい!!」

 その言葉にエリクの瞳が此まで見たことが無いほどまでにつり上がる。咄嗟に振り上げられた拳にフィリーネは目を見開いた。
 ―――殴られる。
 だが、その拳は彼女を襲う事なく、真っ直ぐに振り下ろされて壁を突き破る。血塗れの拳を目にして思わず息を飲んだ。

「だから言っただろう。……お前は優しすぎるんだ」

 二人のやり取りを止めること無く見詰めていたテオフィールが漸く口を開いた。まるでエリクが手を出すことが出来ないと知っていたような口振りにフィリーネは眉を潜める。その時、彼女の上にぽつりと滴が落ちる。見上げれば片手で顔を覆うエリクの姿。

「泣いて……るの?」

 驚いて手を伸ばすが彼は嫌がって背を向ける。テオフィールは呆れたように肩を竦めると剣を片手に夫婦に一礼し、静かに家を出ていく。まるで後は任せたとでも言うように。

「安易な事を言ったわ……ごめんなさい」

 背を向けた彼はまるで全てを拒んでいるように見えて怖かった。だが、その言葉に天を仰いでいるのだろう、さらりと茶色の髪が揺れる。

「良いんだ、本当の事だ。俺は弱い人間だよ。……ごめんな、怖かっただろ」

 そう言って振り返ったエリクの目は少しだが赤く腫れていた。ふわりと頭に乗せられた掌は大きく、暖かい。本当に穏やかで人間らしい人だと思う。

「お世話になりました。娘さん、見つけ次第お二人が心配してると伝えます」

 落ち着きを取り戻したエリクは大剣を背負って扉に手を掛けている。フィリーネはそれを見計らうと一礼して扉を通る。外には階段に腰を掛けたテオフィールの姿。二人に気付いて見上げると彼はそそくさと立ち上がった。

「今回は遅かったな」

「兄貴に言われるよりも流石に堪えたよ」

 でも大丈夫。自分の事は一番よく知っているし、なりたいと思ったからこそ傭兵という道を選んだのだから。村から借りた馬に跨がって森を歩く。流石に田舎の馬だけあって毛並みも顔付きも凛々しい。だが、暫く進んだ場所に彼女が居るなど誰が想像しただろう。
 巨木に寄り掛かって杖を握りしめて何かを描く少女。地面には無数の掘り返された後が乱雑に続いている。

「イーナ?」

 思わず溢した言葉に少女ははっと顔をあげる。三人の姿を捉えた猩々緋が大きく見開く。

「良かった……この道を通るか分からなかったけれど正解だったみたい!」

「貴方、此処で何をしているの」

 心配そうに眉を下げるフィリーネはふわりと馬を降りるとそっと両腕を組んだ。それにならって二人も降りては見るものの、何故か嫌な予感がした。

「あのね、王都に連れてってくれないかな」

 その言葉にフィリーネはすっと目を細める。

「王都で何がしたいの?」

「まだ分からない。……ただ、もうサラサには居られない。私、お父さん達の子供じゃないんだもの」

 言葉を終えた瞬間、乾いた音が森の中に鳴り響く。頬にじんわりと広がる痛みは熱を帯びて次第に熱くなっていく。強烈な衝撃と痛みにイーナはただ呆然とするしかなかった。

「貴方、自分の事しか考えてない……実際さっきまではあの方達の子供だったわ。……でも今も変わらない! 貴方はただ、駄々をこねる子供と同じ!」

 言い過ぎていることは勿論分かってはいるが、溢れ出る感情を止めることが出来ない。いつもなら平然と聞き流すことが出来る筈なのに。制御しようとすればするほど自分が求めていない方向へと事態を持っていきそうで怖い。今はただ、感情が怖かった。
 ――あの子は危険から守られてばかりの温室の花。私には守ってくれる人は居なかった。壊れてしまいそうな時も、狂いたい時も。皆の視線は奇異なものばかりで観察されているような気分だった。その時の記憶を思い出して思わず口を押さえる。吐き出してしまいたい衝動に襲われながらフィリーネは素早く馬に飛び乗ると逃げるように手綱を引く。もう薄暗い森の中に自分を隠そうと必死だった。

「フィリーネ!」

 自分を呼ぶ声に振り返りそうになるがぐっと我慢をして手綱を手が白くなるまで握りしめる。先日見た嫌な夢が再び這い上がってきて彼女を蝕んでいく。その夢は現実の一片。逃れられない事実を胸に抱き、隠そうとしても無駄だった。
 ―――誰か、助けて。
 心では叫んでいるのに体は助けを拒む。もう涙で視界が霞んでいた。


+++++++++



 風のようにあっという間に消え行く姿に唖然とするテオフィール。イーナも叩かれた頬を手で押さえたまま呆然としている。彼女自身、何故叩かれたか理解してないのだろう。

「優しすぎるのかもしれないけど……放っておける訳無いだろ!」

 エリクは自分の馬に跨がるとテオフィールを見やる。青碧の瞳は早く行けと急かす。それに背を押されて馬の腹を強く蹴った。深く枝達が入れ込んでいる森は中々走りづらい。彼は必死に馬の足跡を見付けては追いかけていく。まるでそれはかくれんぼの様。激しく蛇行して進んでいく足跡に不安を感じていた。このまま進んでしまえば自分が何処に居るか等見失うのは早い。

「何処にいるんだよ!」

 苛立ちの余りに溢した言葉は彼を冷静にさせていた。ふと先にはじんわりと光輝く何か。馬は何処か安心したように嘶く。そっと頭を撫でてやれば馬はゆっくりと歩き出した。その場所は空間が深い蒼が混ざったエメラルドに彩られていて全てが輝いているように見える。余りの美しさに思わず息を飲んだ。

「……聖泉を見るのは初めてか?」

 若干掠れたアルトの声が響いた。その方向に顔を向ければ俯いていて瞳は見えないが確かにフィリーネが其所にいた。

「あぁ、初めてだと思う」

 そう言って彼女から少し離れた場所に座って胡座をかく。両手を組みながら辺りを見回してみる。全てが彫刻のように見えるほど完璧な出来映えにまるで人工の様な感覚がある。そこどふと思った。彼女が此処に逃げ込んだ理由が分かった気がする。

「自分の人間らしさが嫌なのか?」

 その言葉にはっと顔をあげるフィリーネの顔は前髪が左目を隠していたがほんのり赤みを帯びている。
 今思い返せば、彼女は余りにも完璧すぎる。地位も血も能力も性格も。全てが完璧とされる型通りな人間などいない、それならば――。

「自分を演じてたんだな」

「……演じてるつもりは無かった。だが、環境がそうさせたんだろうな」

 自嘲気味に笑って見せる彼女の表情は余りにも辛そうで苦しそうだった。

「なぁ……」

 何、と顔を傾けさせれば片目を隠していた黒髪が揺れる。少し荒い風が神秘的な木の葉を揺らしていた。

「辛い過去を一人で背負ってないで俺に分けてくれよ」

 そうすればきっと貴方らしく居られるから。
 ずっと演じたままというのは辛いだろう?

 その手を掴みたいと思っている筈なのに口からは全く思ってもいない事が溢れていった。

「傭兵とはその様なことにも長けているのだな、呆れた」

 くすりと笑って見せればエリクは少し驚いたような表情をする。顔を赤らめたり、視線を反らしたりしている姿から察するに心から案じてくれていたのだろう。それを無下にしている自分が憎かった。でも任務が終わってしまえば会うことはきっと二度と無い。だからこそこれ以上は足を踏み込んではならない、踏み込ませてもいけない。
 自分の心が巨大な壁に覆われた気がした。



+++++++++



 ざわりざわりと森が鳴く。風に煽られて木の葉を落とす木々達を見上げながら二人は無言のまま時を過ごす。勿論、そのままで落ち着ける訳では無いが瞳を閉じたままのテオフィールに声も容易に掛けることが出来ない。自分がどうしてフィリーネを怒らせたのか全く検討が付かない。新天地を求めるのは決して悪いことでは無い筈。

「気にしてるのか」

 発せられた声に顔を上げる。目の前に居た彼はふと疲れたように視線を反らす。きっと彼なら理由を知っているかもしれない。

「リーネが何故怒るのか、私には分からない」

 その言葉に彼は漸く合点がいった表情を浮かべる。

「リーネは偽名だな。本名はフィリーネ……この名前で分かるだろ……彼奴は弓皇女だ」

 その言葉によってイーナの中で一気に知らなかった筈の彼女の情報が湧き水の様に溢れ出る。確か、一般騎士と皇妹の血を受け継いだせいで暗殺者に狙われ、それを討ったせいで継承権を認められず。今ではその存在さえ普通の人々から忘れ去られつつある皇女。テオフィールも名前を聞いた時点で結びつけるべきだったのだろう、だけども正当な聖歌魔術を目の前にいつの間にか疑いは確信へと変わっていた。その情報は辺鄙な田舎に住んでいるイーナも聞いたことがある程有名な話だった。

「わ、私……」

「偽名を使うと言ったのはフィリーネだ。お前は知らずに自分のやりたい事を目指しただけ。悪いことでは無い」

 過去を隠したいと思ったのは彼女。それを知らなかったのは無知という訳ではない。人には長く生きてきた分にそれだけ重ねてきた過去がある。それは勿論目の前にいる彼にも、そして自分自身にも。
 すると突然テオフィールはイーナの手を取って素早く木陰に飛び込む。巨大な爆音と同時に彼女がいた場所が大きく抉れている。呆然と眼を見開くイーナを木陰に留まる様に念を押すと長剣を構えて襲ってきたものの姿を確認する。先日戦った獅子の様な大きいものではないがそれなりの大きさを持っている。
 だが、あの威力は一体――。

「テオ、前!」

 イーナの悲鳴の様な声を合図に咄嗟に地面に手を付いて転がりながら体勢を立て直す。魔物は低い唸り声をあげながらじりじりと歩み寄る。彼はふと溜息を吐き、すっと剣を突きつける。切迫する中でも彼なりのリズムを崩さない。それが勝利へのきっかけにもなる。剣が一閃し、魔物を一撃で沈めてみせれば、腰を抜かしたイーナが漸く安堵の表情を見せた。

「急に来るなんて……!」

「立てるか」

 そう問うてはみるものの、テオフィールはイーナの腕を掴みその体を支えて無理矢理立たせる。支えを失ってしまえば直ぐにでも倒れてしまいそうだ。必死に腕に縋り付いて気を落ち着かせる。

「囲まれてる。その様子じゃ……走れないな」

「う、……ごめん」

 先程まで一般人で旅をしたいと言っていた少女が直ぐに魔物と戦える様になるとは勿論思っていない。だが一人でこの場所を切り抜けるには無理がある。辺りをじっくりと見渡せば所々に赤々と光る瞳に彼女の背に鳥肌が立つ。

「あの時みたいに何か出来ないか?」

 青碧の瞳とかち合う。ぐっと息を呑んで握りしめたままの杖を胸に抱いて瞳を閉じる。それを見届けたテオフィールはそっとジャケットの袖を捲り上げる。本気で立ち向かわなくては生き残る事が出来ない。
その時、淡い青の閃光が辺りを支配する。余りにも柔らかい色彩に思わず眼を奪われる。振り返ればほんのりと青い光に輝くイーナの姿。開かれた猩々緋の瞳が鋭く、獣の様に魔物達の行動を縛り付ける。微かに白い息を出すのは急激に下がった温度の所為だろうか。

「テオフィール!!」

「二人とも動けるのか」

 直ぐさま大剣を構えて魔物に飛びかかるエリクにフィリーネも弓を取る。イーナの頬からは既に汗が流れ出てきている。精神的な負担が余りにも大きいのだろう。このまま時を止め続ける事はできない。一撃で確実に息の根を止めながらエリクに馬を指す。彼は頷くと直ぐさま後方にいるフィリーネを下がらせつつ馬に飛び乗る。それを見届けるとテオフィールもイーナに駆け寄った。

「逃げるぞ!」

「制御……出来ないの!!」

 見開いた瞳から涙がこぼれる。次第に荒くなっていく息は辛そうだ。彼は耳元で何か囁くと鳩尾に拳を叩き込む。ふと力が抜けてもたれ掛かる体を担いで馬に乗せるが直ぐに魔物達は迫ってくる。

「兄貴! 早く!」

 素早く二人の盾になる様に馬を横付けしたエリクの後ろには弓を射続けるフィリーネの姿。魔物達の悲鳴に急かされながら馬に跨るとそのまま強く馬を蹴った。何処までも何処までも追いかけてくる魔物を振り切る為にただ走り続けた。



次へ
戻る