月光のラナンキュラス
Act.10 潮騒を遠くに
この心を宿す魂はどこから来たのだろう。大空を駆け巡っていたのだろうか、それとも目の前の広大な海に眠っていたのだろうか。そんな自分らしからぬ壮大な思いに内心苦笑しながら情景を目に焼き付ける。海に出るのは初めてでは無いが毎回出航の度に高鳴る鼓動を押さえることは出来なかった。
「想像してたより大きい船だな」
テオフィールの隣で太陽の日差しから目を守るように掌を翳したエリクはまじまじと小さな漁船の中に映える航海船を見上げる。彼の想像では漁船よりも少し大きいものを想像していたのだが人が自由に往来できるくらいの船に思わず感嘆の言葉を漏らした。この様な大きさならばきっと隣の大陸にあるフィーリ王国にも簡単に行けるだろう。暫くして帆を畳みだす船はゆっくりと近づいてくると手際よく碇を下ろす。待ちかねたように一歩踏み出したフィリーネは船長の姿を見つけて大きく手を振った。
「お久しぶりでございますな、姫」
船を我が物顔で歩き回る船長は白髪混じりの茶髪と海のような瞳が印象的だった。彼は波止場で待ちかまえていたフィリーネに近づくと固い握手を交わした。
「そうだな、お前が除隊して以来だから」
嘗ては騎士団に所属していた男は幼い頃、城下に住んでいた頃に知り合った人。彼女が近衛騎士となってから何度か顔を合わせたりしたがここ最近は彼が除隊したという噂を聞いていた。すると彼はフィリーネの言葉にご存じでしたか、と呟いてゆっくりと背を向けた。
「だが、何故お前が?」
「騎士を辞めてから商船の手伝いをしておりましてな、スヴェン殿から助力するように依頼されたのです」
スヴェンと聞いて反応したのはフィリーネだけでは無く、兄弟までも眼を見開く。その理由は恐らく帝都城でのスヴェンの言葉が示してくれた。
――共に仕事をした仲じゃないか。
一体いつ、何処で、そして何故エリクは怒っていたのだろう。理由さえ分からずに彼が怒るはずは無い。だけども知るには彼らを知らなさすぎた。
「ねぇねぇ、乗っても良いの?」
生まれて初めて乗る船に我慢が出来ないのだろう、うずうずする彼女にエリクまでもが瞳を輝かせている。彼女はどうぞ、と促すと駆け込む優に船に飛び込んでいく。そんな二人を見ると思わず笑みが溢れた。
「香辛料、原石……商船にしては品数が少ないんじゃないか?」
眉を潜める彼に彼女は肩を竦めるだけ。普通商船に積まれるものの代表としては香辛料などが多い。食べ物だと腐りやすく、物では技術で直ぐに価値が下がる為に積まれる事は殆んどない。その分、腐らずに運べて気候によって育ちに差が出る香辛料は輸出入に適してると言える。
「意外に知識が深いな」
「親父が良く言ってたのが頭に残っているだけだ」
感心する彼女から顔を背けて船の乗員を見渡せばざっと片手が一杯になるような人数。一人一人日を沢山浴びているせいか、肌は小麦色に染まっている。
「最近は海賊がアルディード・レイヴァス近海を暴れておりますからな。商品は最低限にしておかないと儲けも何もないのでございます」
「海賊だと……?」
日常的に海へ出る者でなければその危険を知ることは出来ない。それに人々は中々海に出ることは無い。島国であるフィーリ王国以外にも国はあるとされているがその実態は謎のままである。
テオフィールは船に乗り込みながら二人の話に耳を傾けた。
「古くから商人を行っている友人が言うには此処数年での事で。それまでは荷が少し無くなる位だったそうですが」
「悪質になっているという事ね、帰還したら陛下に報告するわ」
よろしくお願いします、と微笑む彼は二人を船室へと先導する。辿り着いた部屋は船長専用の部屋らしく赤い絨毯が敷き詰められ、古い家具が少し置いてある質素な部屋だった。だけども――。
「うわぁあ、すっごい豪華な部屋ね」
イーナにしてみれば質素な部屋も豪華に見える。帝都城の豪華さよりはまだ馴染みやすいがテオフィール達から見れば中の上程度の部屋に見えた。
「喜んで貰えて何よりで御座います。それでは本題に入りましょうか……」
「あぁ、私達は此処から東にあるレイヴァス王国へ向かう」
フィリーネの言葉を余所に甲板では碇を上げる音や指示の声が飛び交っている。威勢のいい男達の声が響き渡る。
「一般的に言われているようにレイヴァス王国は二十一年前より完全な鎖国状態に入っています。その内情は知ることが出来なくなってかなりが経ちますが多くで不穏な噂は聞いております」
「それって、どんな?」
イーナの声が微かに震える。
「国王は今まで生まれ付きの魔道士を自分達の同志として深く擁護してきました。魔力を持つ幼い子供は貧富に構わず教育を施し、国の繁栄を支えさせた。ですが、民が魔力を持つのは王の権威が落ちるとして虐殺の命令を」
「そんな……」
胸糞悪い話だ、と呟くテオフィールは静かに呟く。魔力なんかあってもなくても王の権威はいつも脅かされている。政治に失敗すれば民から恨みを買い、他国との交流が上手く行かなければ暗殺の危険だって。そして王位継承者が居なければ骨肉の争いとなる。
そんなことを考えている間に微かな揺れを感じた。きっと船が出航したのだろう。時折波が船体に叩きつけるような音がしては体勢を立て直す。
「多くの魔道士は人里離れた場所に身を隠していたが、王に反旗を翻した者達もいました。それが救いの女神――ブリガンティア」
――ブリガンティア。救いの女神とも呼ばれるその名は古の時代に起こった百年戦争を終結させた魔力を持った女性達が名乗った。それぞれ現在でも国の名の由来として強く根付いており、彼女たちの子孫は現在各国を統治する者達に受け継がれている。
だけども二十一年前のブリガンティアは、誰がどのようにして立ち上げたのかは分からない。その存在さえ抹消されてしまう程の勢力だったのだろうか。
「生き残りの魔道士は……?」
不安そうに尋ねるイーナに彼は俯いて分かりませんと答えるだけ。それ程までに隠し続けられた情報と人の存在。人々が死んだ筈の王子が生きていると噂するのも無理はない。
「私……外に出てる」
長い睫毛を伏せたまま部屋を出るイーナを咎めることは誰もしない。寧ろ、皆黙ったままでこれから自分達が足を踏み入れる場所に不安を抱いているのだろう。両手を組んで一点を見つめるテオフィール、唇をきつく閉じて宙を眺めるエリク。そんな二人を一瞥して静かに部屋を出て甲板へと向かうフィリーネは強く舞う風に髪を押さえた。
出港してから半刻も経っていないのにもう陸地は見えない。鴎(かもめ)達が空を悠々と飛んでいる姿を眺めていると人間がちっぽけな存在に見えた。
「リーネ……」
今にも消えそうな声のする方向を見れば荷物の影から金糸が覗く。目が合うとそれは直ぐに逸らされてしまう。だけどもフィリーネはゆっくりと彼女に歩み寄った。
「リーネは皇女様でしょ。皇女様なのに何故戦うの?」
俯きながらも少し責めるように問いかけるイーナ。そんな彼女の隣に腰掛けると何処までも透き通った蒼穹を見上げた。
「逃げる為、かな」
「逃げるって……何から?」
「皇位の継承からよ。私は皇位なんか欲しくない、それよりも……ずっと城下で家族と住んでいたかった」
皇女様は帝都城で着飾ってまるでお人形の様なんだろうなと想像していたのに。フィリーネの唇を噛み締める姿を見たらそんな想像は相応しくないのかも、と思ってしまう。誰もが何の悩みも無く過ごせている訳では無い。
「私、行きたいのに怖いんだよ。魔道士は皆虐殺されたって、もしかしたら両親が見つかるかもって簡単に思っていた自分が馬鹿みたい」
「お願い、そんな事を言わないで。貴方は一番に願っていたことは何? ――自分を知ることでしょう」
レイヴァス王国に一番希望を抱いて未来を描いていたイーナの言葉にフィリーネはゆっくりと首を振る。両腕を抱いて顔を臥せる彼女にそれ以上何も言うことは出来ない。況してや人の考えを変えるほどの説得が自分に出来るとは思えなかった。
そうして部屋へと戻ろうとした時、耳を割るような悲鳴が辺りに響き渡る。慌てて物陰から飛び出して目にした光景は思わず後退りするようなものだった。
「海の魔物だと!?」
甲板に侵入してきているのは藻を頭から被った魔物の姿。顔までははっきり見えないが瞳は赤く煌めいて不気味だ。何事かと顔を上げたイーナも思わず猩々緋の瞳を大きく見開いた。
「こんな所にも……」
持ち歩いていた杖を握り締める。だが、一陣の風が前を擦り抜けていった。剣を抜き払ったテオフィールが先陣を切って大きく飛び上がる。振り上げられた長剣は魔物が被っていた藻を剥ぎ取った。それは宙を舞うと海へと帰っていく。暴かれた魔物の姿はまるで蛸の様な形、八本の足が縦横無尽に暴れ回る。
「うっわ、潮臭ぇええ!」
甲板で襲いかかる蛸の足を大剣で切り落としながら鼻が曲がりそうな匂いに顔を顰めた。だけども斬っても斬ってもどんどんと再生する足。普通に倒しても海でまた暴れはじめるだろう。エリクは剣で下からすくい上げるように蛸を切り上げる。その勢いで後に仰け反った蛸の頭部に丁度降りてきたテオフィールの長剣が深々と突き刺さった。暴れていた蛸の動きは次第にゆっくりになり、少しすると全く動かなくなった。
「生きの良すぎる蛸だったな」
刺さった剣を抜けば蛸の持つ墨があふれ出す。それを合図に船員達は蛸を持ち上げて海の中へ放り込んだ。美しい青だった海が黒く濁っていく。それでも 魔物が現れた事も知らない様に引いては押す波の緩やかな動作に冷たさを感じる。テオフィールはそんな風景を眺めながら次第に近づいて来た大陸に眼を細めた。覆い繁る森はアルディード帝国とそう代わりは無い。ただ、違うのは空を覆う黒い雲に異常さを感じた。
「黒い雲……」
「息苦しい感じだな」
鮮やかな萌葱色の瞳を歪ませるエリクは悲しみの色を宿らせた空を見上げる。王というバランスを保つ存在を無くしたレイヴァス王国は既に崩壊の一歩を踏み出していた。それを止めるにはそれを継ぐ存在の噂を確かめなくては――。
「でもアルディード帝国にどんな利益があるんだ? レイヴァスが王国として復活しても助けを受けた国なんだから同等の立場になるとは思えない」
「それには理由がある」
そう言い放ったのはフィリーネ。直ぐ後ろを歩くのは金髪をふわふわ揺らしながら歩くイーナ。落ち着きをまだ取り戻していないのだろう、微かに顔色が悪い。
「まさか属国扱いにする訳じゃないだろう」
「当たり前だ、この世界には摂理がある。絶対不可侵な摂理を破れば世界が滅びる。まぁ、やって見なきゃ分からんがな」
この世界に舞い降りた三人の女神――元はブリガンティアと名乗った女性達であるが――互いの力を均等とし、反発し合う事によって世界の秩序を保っている。何処かが欠ければ世界は揺らぎ、そのままにしておけば世界の破滅に繋がる。属国などにしてしまえば力の均等が崩れ、世界崩壊の拍車を掛けてしまう。
「なら……今の状態って」
「最悪、その一言に尽きる」
既にレイヴァスの国王が倒れて二十年近く経つ。それでも世界を保つ事が出来ているのは何故だろう。もしかしたら受け継ぐ存在を大地が感じ取っている所為なのか、そうしたらあの噂は真実と言うことが出来る。一人悶々と思考を巡らせる彼女を引き戻すように力強い声が響いた。
「着いたぞーー!!」
海中に響き渡る様な大声に四人は振り返る。浅瀬に渡された橋は先程の森へと繋がっているようだ。正規の港に着く事は出来ない為わざわざこうした場所に碇を降ろしたのだろう。失敗は許されないという圧力が辺りを包み込む様だった。
「行こう……行くしかないもん」
もう戻る事は許されない、出来るのはただ進む事のみ。
重い足取りで森に足を踏み込めば広がるのは獣道。何十年も誰も通る事がなかったのだろう。そこに佇んでいるのは古びた石碑一つ。刻まれた文字も風化して読めなくなってしまっている。
「随分古いな」
「墓か? 恐らく大虐殺の時に亡くなった者達を祀ったんだろう。公にすれば取り壊されてしまうしな」
それが敗者の運命だと呟いたフィリーネはそっと細い指で石碑に触れる。労う様な表情を浮かべる彼女にイーナは複雑な感情が自分の中に渦巻くのを確かに感じた。もしもこの場所に眠っている中に自分の両親が眠っていると思うと怖くて堪らない。彼女はそっと膝を付くと両手を組んでそっと祈りを捧げる。生き残った自分に対する責めと此処にいる自分への感謝が矛盾を起こしていた。
「王子様……生きててくれてるかな」
祈りの為に組んでいた手を解いてそっと墓を撫でる。二十一年の空白は彼にしか埋められないのだから。
「信じるしかないだろ」
そんな彼女にテオフィールはそっと手を差し出す。今心配するべきなのは情報を掴んでアルディード帝国に持ち帰る事。きっと彼女にとってはもどかしいだけになってしまうかもしれない。
「行こう」
そうね、と頷いたイーナは一人歩き出す。そんな背中を見つめながらフィリーネは一人溜息を吐く。やはりこの任務は彼女にとって酷なものでしかない。それを考えるとこの先に一抹の不安を感じざるを得なかった。
その時枝を折って歩く足音。はっと振り返った時には遅かった。蒼い瞳が真っ直ぐ此方を見据えている。珍しい銀色の髪を緩く後ろで纏めている青年は驚いた表情を見せるが何故か直ぐに笑みを浮かべると彼らを一瞥して歩き出す。持っていた百合の花束をそっと石碑の前に手向け、祈りを捧げると漸く彼らに向き直った。
「こりゃ参ったね。色々と魔力がごちゃ混ぜだ」
めんどくさいな、と頬を掻く彼に思わず身構える。が、彼は肩を竦めてみせるとそのまま歩き出す。その緊張感のない様子にテオフィールは眼を細める。
「侵入者に知らぬ振りか?」
「侵入者?」
銀糸の彼は振り返るとテオフィールの青碧の瞳を真っ直ぐ見つめる。不信感を宿したその瞳に彼は強く瞼を閉じるが暫くして漸く瑠璃色の瞳が顔を出した。
「別に構わない、付いてきたら良い」
「誰だか知らねぇのに付いて行けっかつーの」
ずっと背中の大剣に手を回したままのエリクが珍しく眉をつり上げる。この飄々とした感覚が気に入らないのだろう。だが目の前の男はふと口角を上げただけで其程切羽詰まった感情には届かなかったらしい。彼は外套をはね除けると自信に満ちた表情で宣言した。
「カイザー・レオ・フォン・デーベライナーだ。お見知りおきを紳士、淑女の皆様」
「ちっ、貴族か!」
そう叫んで剣に手を掛けるテオフィールにそれぞれ武器を構える。貴族の多くは政治に関わりのある役職に就いていることが多い。だが焦る彼らとは裏腹に彼は楽しそうに口元を押さえて笑っていた。
「貴族だからって全てを俺は直接政治に関わっているわけでは無い。こう言ったら分かるかな、俺はブリガンティアだ、ってね」
その言葉にイーナの紅の瞳が揺れる。海で船長が言っていた言葉が脳裏に蘇る。多くの魔道士は人里離れた場所に身を隠していたが、王に反旗を翻した者達。それが救いの女神――ブリガンティア。だけども本当に彼がブリガンティアか証明する術は、無い。
「ま、疑うよな……氷と時を司るドレッセルの跡取り娘。あんたの両親が元々は立てた組織だが……士気の都合上使わせて貰ってるよ」
――今何て言ったの?
彼の言葉に雷鳴が貫いた様な感覚に襲われる。何故と呟く前にカイザーはゆっくりと石碑の前に歩み寄るとそっとしゃがみ込んだ。
「ここはブリガンティアが滅亡した場所、即ちあんたの両親の墓だ」
「嘘……嘘よ! でたらめ言わないで!」
「眼を見れば分かるさ、紅の眼は公爵様とそっくりだ。それに時を止めるとか出来るんだろ? 感じる力を隠すことが出来ても偽ることは出来ないぜ。なぁ、アルディードの皇族」
瑠璃色の瞳が急にフィリーネに向けられる。ぞくりと震える背筋を耐えてきつく睨み付けるが彼の前では無駄だった。
(こいつ……出来る)
押し殺している魔力でさえも本質を見抜いてしまう彼に今は逆らうべきでは無い。だけども彼の言ったイーナが跡取り娘だという言葉、だけどもフィリーネが感じることの出来る彼女の力は弱いものだ。
「これでも付いてこないか?」
「良いだろう、……行ってやる」
テオフィールの言葉にカイザーはにやりと笑うと何事も無かったかの様に歩き出した。番えていた矢を収めて悔しそうに胸元を握りしめるイーナの肩を抱くと予想も付かないこの先に不安そうにエリクを見上げる。だが、彼もお手上げだと肩を竦めただけだった。
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