月光のラナンキュラス
Act.14 覚醒
広がる世界は全て灰色に染まる。それは絶望の色か、新たに染まろうとする未来を待つ過去の色か。ただ見上げた空は黒く塗りつぶされていた。何処に行くべきか分からずにただ足を前へと動かす。かつりかつり、と歩むヒールの音を聞きながら黒曜石の瞳を辺りに向けた。
荒れ果てた土地と今にも消えそうな炎。親を亡くした子供がどうすれば良いのかも分からずにわんわんと泣き叫ぶ声。
『どうして逝ってしまったの?』
物言わない棺に頬を押し当ててそっと問う。何も返ってこないのは分かっていても問わずにはいられない。きっと戻ってくると告げた彼の表情は今でも思い出せるのに。緩やかな癖を帯びた黒髪が流れるように溢れ落ちる。棺をただ抱き締める女性の顔を見た瞬間、フィリーネは息を飲んだ。顔立ちも瞳の色も良く似たもう一人の自分が其処にいたから。
『貴方は分からないでしょう、私の気持ち。こんな筈じゃなかったのに……私の力が弱かったばかりに!』
――愛する人を失ってしまった。
それは力の無い自分への報いだろうか。それとも表舞台へと出てしまった自分への戒めだろうか。突き刺さるように感じる想いに思わず飲み込まれそうになる。
「力なら私も欲しい……大切な友人を守る力」
『自分自身をしっかりと見つめて。貴方が守りたい、力となりたい人はただ一人。私には分かるわ……だって貴方は私だもの』
どういう意味だ、と目を細めれば女性は立ち上がってフィリーネを見つめる。同じ身長に同じ体格、まるでそれは鏡を見ているようだった。
『言葉のままよ、フィリーネ』
微笑む女性はそっと手を差し出す。握られた掌から暖かな想い、冷たい怒りが全て流れ込んでくる。その時素直に思った、この人は私なんだと。ぼんやりと霞み始めた瞳は現実世界へ戻ろうとしているのだろう。引き寄せられる力に身を委ねて瞳を閉じようとした時、開かれた棺の窓に見慣れた顔があった。それは――。
「嘘だ!!」
自分の声に驚いて目を覚ます。焼き付いた夢が脳裏から離れない。きつく瞳を閉じて振り払おうとするが何をしても無駄だった。
「おい、大丈夫か!!」
フィリーネの叫び声を聞いて駆け寄ってきたエリクを見た瞬間に安心してほっと胸を撫で下ろす。棺の中にあった顔は確かに彼のものだった。青白く、血にまみれた姿を思い出すだけでぞっとする。両膝を力一杯抱き締めて顔を伏せる彼女にエリクはそっと歩み寄ると寝台に腰かけた。
「良かった……生きてる」
「俺は此処にいるよ」
「分かってる。でも……」
優しげに笑うエリクの姿を見たら心底ほっとした。片手を伸ばして彼の肩に触れれば暖かさが直に伝わって思わず涙が出そうになる。あの女性が亡くした人は彼と似た人なのかもしれない。私は彼女、彼女は私、だからこそ想いは一つになる。そう悟った瞬間、心の中でもう一人の自分が笑ったような気がした。
(何だろうな……すっげー進歩なんだけど)
微笑を浮かべながら壁にもたれ掛かったまま眠るフィリーネに幼さを感じる。いつも凛として背筋を伸ばして前を見据える彼女。だけど自分の知らない思いを一杯抱えきれないほど抱いていて――普通の女性と変わらない姿のフィリーネが目の前にいた。
既にケテルの街に船が到着して一時間。テオフィールはクレアを引き連れて街に降りていることだろう。早く合流しなければと思う気持ちと彼女を休ませたい心遣いが複雑に入り組む。時間が刻々と迫っていた。
+++++++++
「すっごーい!!」
船を降りて開口一番に叫んだクレアの言葉はテオフィールを頷かせる言葉だった。ケテルの街はアルディード王城よりも東に位置しており、海も近いために作物も育たないと思われがちだがそんなことは無い。港を完璧に整備し、不必要な海風を遮断するように高めの建物が畑を囲うように立ち並ぶ。そして中央に広がる黄金に輝く小麦畑に船からの旅人は誰もがその美しさに言葉を失うのだ。
「久しぶりに見たが……もうこんな季節か」
街を出て数年、幾度か故郷に帰る機会にも恵まれたが毎回見る度にこの景色に目を奪われる。
「思っていたよりも物凄く豊かですね! レイヴァスではこんな景色、見たこと無いです」
くるくると踊るように両手を広げて嬉しそうに笑う彼女は好奇心に瞳が爛々と光る。ふわりふわりと風に流されて揺れる髪は日の光を浴びて美しく煌めいた。その色にふと同じ髪を持った血のような赤の瞳を持つ少女を思い出す。戦う事を決めた彼女は今どうしているだろうか。自分と言えばやっと一歩を踏み出した状態。
(――進めないよりはずっと良い)
自分を励ますように言い聞かせて青碧の瞳を真っ直ぐ向ける。
ゆっくりと歩み始めるテオフィールについていくように歩くクレアはふと船に視線を向ける。船に残ったエリクもフィリーネが体調を崩さなければ此処にすんなりと来る事が出来ただろう。ぶつけたい苛立ちを無理矢理明るく振る舞って発散してみるものの渦巻く思いはどうしても振り切る事が出来なかった。
「行くぞ、クレア」
「はい!」
擦れ違う人々がテオフィールの姿を見れば大きくなったなとか、噂を聞いてるぞとか声を掛ける人々にはにかむような笑みを浮かべて礼を言う。冷たい印象を受ける彼でも幼い頃から育った場所ではやはり子どものような扱いを受ける。それが嬉しくもくすぐったいのだろう。足早に街を抜ける二人は街から少し離れた高台を目指す。かなり急な坂に軽く息を荒げながら一気に駆け抜けたクレアはその場所から見える景色を見渡した。黙々と後ろを歩いていたテオフィールの透き通る茶色の髪はアルディードでは一般人と同じ色。だが、同じ色をした彼の髪は光に当たるとほんのりと金髪がかって美しい流れをしている。それに比べてエリクの方は光の元では赤みの強い茶色の髪。それらは一般人の髪色では絶対に現れない美しい、正に芸術品。そんな事を思いながら後から坂を登りきってきたテオフィールと並んで下に立ち並ぶ民家と同じような造りをしている家を見つめた。
「此処が……」
「平たく言えば実家だ」
玄関扉の横に備え付けられた呼び鈴をそっと鳴らす。ささやかに家の主を呼ぶ鈴の音と共に中からどたばたと扉に駆け寄る足音が響き渡った。
「はい、どなた……あら、まぁ、テオじゃない!」
「ただいま、母さん」
中から出てきたのはクレアと丁度背丈の似た中年に入ったばかりの女性。テオフィールは優しく微笑むと久しぶりに見る母をそっと抱き締めた。この前帰った時と変わらない顔色と抱き締め返してくる力に安堵する。
「あら、こちらのお嬢さんは?」
「私、クレアと申します! テオフィールさ……殿とエリク殿の仕事に同行させて頂いてます」
快活に笑うクレアに好印象を抱いたのか女性はまるで娘を見るかのような眼差しで彼女に優しく声を掛けた。
「まぁ、遠いところからご苦労様。私はアリアよ」
母――アリアは二人を家の中に招き入れると手早くお茶を淹れる。甘く優しい香り漂う紅茶に肩の力が自然と抜けた。
「エリクは?」
「船で病人、看病してる。……その内母さんの顔を見にすっ飛んで来る」
まぁ嬉しいわ、と笑うアリアはすっと笑いを治めるとテオフィールに向けて口角を上げた。
「ただ、戻ってきた訳じゃないでしょう?」
まるで見透かしたかのような口調で問い掛けるアリアにテオフィールは肩を竦めて見せる。隠していても何れ伝えなくてはならない事、彼は真剣な眼差しで母の姿を見つめた。
「親父に用がある」
やっぱりね、と呟いた彼女はまるで全てを悟ったかのように視線を遠くに投げ掛ける。
「多分、集会場で仕事しているわ。……今すぐの方が良さそうね」
その時遠慮がちに開けられた扉から顔を出したのエリク。アリアと視線が合うと満面の笑みを浮かべていた。彼は家に足を踏み入れると力一杯母の体を抱きしめた。
「久しぶり、母さん。元気だった?」
「勿論よ、貴方もテオと同じ用件ね」
うん、と頷けば紅茶を啜るテオフィールと目が合った。きっと直ぐに用件を切り出す事が出来ないエリクの代わりに先に行ったのだろう。優しい性分の所為で人を傷つける言葉を嫌がる。共に仕事をした仲間からは意外だという目で見られるがこれだけはどうしても譲れなかったのだ。それを知らないクレアは弱冠不満そうに見えた。
「あ、そうだ……」
紹介しなきゃね、と呟いたエリクは扉の外に向かって声を掛ける。するとすっかり顔色の戻ったフィリーネの姿が其処にあった。彼女はアリアの前で優雅にお辞儀してみせると柔らかな笑顔を見せる。それは彼女と共にしてきた今まで見た事が無いほど穏やかな笑顔だった。
「初めまして、私はフィリーネと申します」
「まぁ、フィリーネって皇女様と同じお名前なのね」
彼女の挨拶に感化されたアリアもにこやかな笑みを浮かべる。だが、突っ込みたい衝動に駆られるエリクの代わりに口元に笑みを浮かべながらテオフィールが鋭く指摘した。
「母さん、本物だよ」
「あらまぁ、本物の皇女様……紅茶でも如何です?」
「はい、頂きます」
少し驚いたように目を見開くが直ぐに微笑を浮かべて彼女に紅茶を勧める。彼女もごく自然に席に着いて視線をテオフィールに向けた。
「話はできたのか?」
「ん、まぁな。本題には入れた」
そう、と俯くと目の前に紅茶が出される。有り難う御座います、とアリアを見つめると変わらぬ微笑が返ってきた。敬うわけでも、恐れるわけでも無いアリアの姿勢が嬉しい。だが、彼女はヴィルヘルム・アーベントロートの妻。それを考えると彼女もレイヴァス王国の関係者ということだろうか――。
「親父の所に行ってくる来訪者は街長に挨拶しないと、な」
街長とは村長や町長と同じ役職と考えて良いのだろう。このような暖かな街を治める彼らの父親は一体どんな人物なのだろうか。彼らと出会ってエリクに聞かされた故郷の話は彼女の思い描いていたものとほぼ同じだった。大きな風車に黄金の小麦畑、それを引き立てるような透き通る空。
――この景色をもっと見てみたい。
「私も行くわ。街をもっと見たいから」
口から溢れる素直な言葉に自分でも驚いたがテオフィールは快諾し、クレアに家に残るように告げて家を出た。粗っぽく舗装された道に足を取られないように気を付けながらエリクと肩を並べる。先を歩くテオフィールは心なしかいつもより穏やかな表情を浮かべているように見えた。だが彼は直ぐに足を止めると役所のような建物を見上げる。その青碧の瞳が映していたのは補修工事を行う男達の姿だった。だけどもその中にテオフィールのような若い青年は見当たらない。街に入ってから殆ど中年の男達しか見ていないような気がする。
「これはこれは、うちの坊主達じゃないかい」
壁伝いに下りてきた体格の良い男性は茶化すような声でテオフィールに声を掛ける。日に焼けた肌に焦げ茶と黒が混じり合った髪からは汗がしたたる。きっと彼が――ヴィルヘルム・アーベントロートその人だろう。
「あぁ、その坊主が忠告してやる。足を痛めているのに高い所に上る馬鹿がいるか」
少し厳しい声で言う彼だがその表情には滅多に見られない笑みが浮かんでいた。が、年相応に見えない無邪気な笑顔はまるで子どものような笑みである。少し驚くフィリーネにエリクはにやりと笑って見せた。
「笑うと俺より幼く見えるよなー。あれでも兄貴も気にしてんだぜ」
「確かに意外ね」
くすりと笑う声が届いたのだろう。テオフィールははっと二人の顔を見るといつもの固い表情に戻っていた。それはこの街に来た目的を思い蛇sたような表情、きっと此処から彼らの悪夢が始まるのだろう。フィリーネは外套を強く握りしめた。
「この前任務でレイヴァス王国に行ってきたんだ」
「そうか……どんな景色だった?」
「それより、俺達に隠してることあるだろ、親父」
横から口を挟むように問いかけるエリクを見てヴィルヘルムは明らかに驚いたような顔になる。片手はさり気なく自分の身長とエリクの身長を比較している。それは兄弟の帰省頻度が手に取るように分かった。
「お前、でかくなったなー」
「うん、男前でしょ?」
えへへ、と笑うエリクにテオフィールは早く話を進めろと促す。すると彼も真剣な表情に戻る。その変化を見るとヴィルヘルムは静かに溜息を吐いた。額に巻き付けられていた手拭いを外すとそれを握りしめる。
何かの決意を示すような行動にフィリーネは眉を顰めた。
「なんだよ、らしくないな」
そう言って笑い声を上げるヴィルヘルムには明らかに話題を変えようとする意図がみられる。変わらず茶目っ気たっぷりで二人を見つめる視線には揺るぎは無い。
「話を逸らすなよ」
「逸らしてなんか無い、ただ本当の事を言っただけさ」
「じゃあ質問にしっかり答えてくれ、隠していることがあるな!」
落ち着いた口調で問いかけといたのも次第にきつい言葉に変わっていく。まるで責めるように追い立てるテオフィールの言葉にヴィルヘルムも癪に触るのは当然だ。
「無いって言ってるだろ!」
「この……頑固親父が!!」
先程まで穏やかだった二人だが睨み合うテオフィールとヴィルヘルムは誰も止められない。止めるべきエリクもどうしたら良いのかおろおろするばかり。そんな彼を呆れたように黒曜石の双眸を二人に向ける。ただ良かったと心の底から思ったのは武器を持っていなかったこと。
「いつまでやるつもり、この似た者同士が」
「あぁ、始まったらずっとだよ……もー、やだ」
両手をヒラヒラさせてその場にで胡座をかくエリクにフィリーネは片眉を上げる。元からこうなる事を予知できた筈なのに対策を取らずにやって来たのは彼なりの考えがあったからではないだろうか。そう思いながらぼんやりと父親と息子の口論を見つめた。
「あれ、止めないの?」
「何故私が止めなくてはいけないの?」
質問に質問で返すと一瞬下から見上げる彼の顔が強ばった。それはまるで魔女でも見たように。自分では冷たい顔をしたつもりは無かったけれど喧嘩を見てると苛々していたのは明らかだった。もしかしたらそれが出てしまったのかも知れない。重い腰を上げる為に視線を逸らされた瞬間にそっと自分の頬に手を当てる。そこはまるで熱でも出したように暖かかった。
「親父も兄貴もこんな所で喧嘩しないで家に行こう。母さんに仲裁してもらうからな!!」
「そ、それだけは止めろ!」
「絶対言いつけるから。しーらなーい」
そう言って家の方向へ全力疾走するエリクをヴィルヘルムが必死の形相で追いかける。余程母親――アリアが恐ろしいのだろう。少し足を引きずりながら走っているが常人と変わらない速さにフィリーネは唖然としていた。
(なんて子どもっぽい親子なの……)
「俺達も行こう、親父は母さんには敵わない」
あんなにも優しげな笑みを持つ母親の何処が怖いのだろうと内心思いながらもテオフィールの背中を追いかける。彼が一体何を考えているのか、その表情から察する事はできなかった。実際に彼もどうしたら良いのか分からなかったからだ。話す事は嫌いではないが一点の事を聞き出すのは不得意だ。ましてや「おしゃべり」という訳でも無い。穏やかに話を進めようとしてもどうしても喧嘩になってしまう。
テオフィールは家への道のりをただ黙ったまま歩き続けていた。家の前まで来ると何やら騒々しい声、何事かと呆れたように扉を開ければ彼の頬を包丁が掠っていった。
「もう貴方ったら頭に血が上りやすいのね?」
「いや上ってるのは完全にお前だろぉおお!!」
見事な手捌きで包丁を投げたのは紛れも無くアリア。ヴィルヘルムは顔を青くしながら彼女を宥めようとしているようだったが逆に彼女の怒りを煽るだけ。びっくりした表情のクレアを庇いながらエリクがテオフィール達の元へと歩み寄る。その顔には苦笑が浮かんでいた。
「外に出よう、俺達の身が持たない」
二人の問題は二人で解決すべきと言わんばかりにテオフィール達は二人の姿を一瞥すると早々と家を後にした。とは言ってもたいして行くべきところは何処にも無い。仕方なしに目立たない街道まで出る事にした。すこし離れた人が行き交いしない街道に出るとそこには丁寧に整備されていたであろう道に馬車が通った跡が残っていた。
「あの二人が本当に知っていると思うの?」
「カイザーはあの二人の正体をレイヴァス王国陸軍所属のヴィルヘルム・アーベントロート、魔軍所属のアリア・アーベントロートと言っていました。魔軍所属の方ならば高度な魔術を扱える方ですね」
「母さんが……」
――軍人だった。それも魔術を扱う魔法使い。信じられなかった、というより信じたくなかった。悉くカイザーの言う通りに事が運んでいくから。自分の居場所が段々と無くなっていく、これが真実を知ると言う事なのか。
「真実を受け入れる覚悟はあるのだな」
はっとして振り返ればそこに居たのはヴィルヘルム。少々顔に怪我をしているのが気になるがその顔つきだけは真剣だった。テオフィールはエリクと顔を見合わせると強く頷いてみせる。それを確認すると彼は少しずつ語りはじめた。
「確かに俺はレイヴァスの陸軍騎士として国王の遺児をアルディード帝国に預けるように命令された」
「帝国に……?」
ただ逃がすのでは無く国家、つまり皇家に全ての判断を委ねよと言うことだろうか。
「皇家に引き渡す事は戦乱の種になる。必ず、宰相は返還を求めて兵を出す。きっとそれもあいつの計算の内だったんだろうな」
「でもそうしなかった」
そう呟くエリクは木にもたれ掛かりながらゆっくりと腰を下ろす。 自分達が戦乱の火種にならないようにしたのがこの結果。きっと皇家に引き渡されていたら今頃は――。
「そんなに俺は善人じゃない」
彼らの考えとは裏腹にヴィルヘルムは苦々しく浮かべる皺を更に濃くする。その瞳は獣のように鋭くなった。
「俺は復讐しようとしたんだ、お前等に。たった一人の家族、妹を国王に殺された」
忘れたことはない。家に帰ってきた遺体は余りにも冷たくて、置物の様だった。うっすらと頬に残る滴は涙の跡だったのだろうか。恐ろしいほどに黒ずんだ頬は『死』を余りにも真っ直ぐに彼に突き付けた。
「チャンスだと思った。だけど、俺には出来なかった。分かったのはただ一つ、俺は臆病者だったということだけだ」
妹を殺されても敢えて騎士を辞さず、偽りの忠誠のまま仕えた。それは獲物を狙う獅子のように復讐する機会をうかがう為。漸くその機会が回ってきた時、眠る幼子の表情は余りにも無垢だった。
「親父……」
「止めろ、俺は父親でもなんでも無い」
突き放すようにぶつける言葉は今まで胸の奥に秘めていた想いが深く強く込められていた。その時、静かに聞き入っていたフィリーネが口を開く。
「一つ聞きたい、二人の記憶は一体……」
「それは俺じゃない」
あるのは長年の経験で培った剣技と武術だけ。本当に一般庶民として育った彼にとってはその力こそが異端に見える。
「ならば、一体誰が……」
「まぁ、確かに『俺』では無い」
そう強調するヴィルヘルムに分かったよ、とあしらうエリクをそっと制したのはテオフィール。彼の青碧の瞳は今だ鋭かったが微かに笑っている気がした。
「成る程、母君か」
クレアの情報に寄れば高度な魔術を操る魔軍の一員だったアリア。そんな人物の手ならば幼子の少ない記憶を弄るのは簡単な事なのだろう。
フィリーネの言葉に微かに頷いて見せたテオフィールが確かめるように父の姿を見れば彼はただ、頭を掻きむしるだけだった。
「なんか、驚くと言うより呆れた」
今まで欺いて来た演技力に脱帽する。一体そこまでして守りたかったものは一体何だったのか。大切と思えたものを守りたかった。もう失うのに疲れた――この時、こんな風に思う日が来るとは思っても見なかった。
「責められる立場に俺達はないね……苦しめていたのは俺達だ」
顔をくしゃくしゃに歪めてうつ向くエリクの肩にそっと手を置くテオフィール。無知のまま生きていた自分が酷く愚かに見える。太陽の下に煌めく茶髪は風に拐われて舞い上がった。いつもと変わらない光景、だけども振り返った二人の表情は強い意思を写し出している。人とはこの様に変われるものなのかと痛感するフィリーネにテオフィールは口を開いた。
「母さんの所に行って記憶をを解いてもらう。レイヴァス王国の王子として、帝国に仇為すなら……」
「私は迷わず皇女として、帝国近衛騎士として貴方達を討つ。たったそれだけよ」
簡単なことよ、と笑ってみせれば良かったと笑って目尻を下げるテオフィールの本当の笑顔を初めて見た気がした。それぞれが国の利益の為に動かなくてはならない。それが友であっても私は我を貫くことしかできない。
――本当にそうするの?
心の中に潜む女性が静かに問いかける。貴方らしく、私らしく生きる。だけども縛るものには反することは時に出来ない。がんじがらめになりつつある自分が滑稽に見えた。――自分らしく生きる。
受け継いだ思いを胸に刻み直して再び顔をあげる。道は自分自身が作り出す。誰にも侵せはさせない不可侵な誓い。
*
*
*
あれから散歩をしてくると言って家に帰らなかった出ていったフィリーネの後を追う気にもなれずに紅茶をすする。紫の視線の先に映るのは世話しなく歩き回るアリアの姿。その手には白いチョークが握られ、複雑な魔法陣が描かれていく。その紋章を見てもクレアにはさっぱり分からない。レイヴァス王国が誇った魔軍とは如何なるものなのかクレアは知らない。
「この日が来るなんてね」
ひとりぽつんと呟くアリアに掛ける言葉が見つからない。テオフィール達とカイザーが出会わなければこの暖かな家庭を壊す事が無かったのだろう。変な罪悪感だと言われてもクレアには重要なことだった。少し気落ちしたように見えるヴィルヘルム達の様子に胸が詰まりそうになる。今まで普通の家庭であったのに、一つの真実が平穏を奪い取ったのだ。憎らしくもあり、悲しくもある。そして真実をもたらしたのは紛れもなく――。
「母さん……」
弱々しく呟くエリクが顔色を窺うように問掛ければアリアは何、と優しく笑って見せる。穏やかではあるが強い意思に満ちたその表情、退くわけにはもういかない。
「俺は本当の自分を見付けて為すべきことを見極めたい、何も知らずに生きるのは無責任過ぎる」
「俺は兄貴や大切な人を守りたい。だけど今の俺じゃ皆を何から守れば良いのかさえわからない。害を加えるものがあるならその芽を摘み取りたい」
それぞれの意思は違えど強いもの。それを潰そうとすれば二人は迷いなく剣を抜くことだろう。同じ男として、剣士として、元レイヴァス王国陸軍騎士としてヴィルヘルムはアリアの肩にそっと手を置いた。微かに震える肩は涙を流しているせいだろうか。
「アリア」
「分かって……いるわ」
そう言って顔を歪めて笑う彼女はそっと歩み寄ると二人を抱き寄せる。優しくも力強い抱擁は彼等を心の底から安心させる。
「ごめんなさい」
今までずっと隠し通して来た事。それが最良だと信じて疑わなかった。だけど、今は違う。真実は覆い隠しても何れは日の下に晒される運命。
「真実を見なさい、それは今まで歩んできた人の道。貴方達は思いを継いで生きなければならない」
凛とした言葉に突如として巨大な力が二人を包み込んで行く。痛む幼い頃に彫った刺青の跡、だけどもあがこうとすればする程、何処か違う場所へ意識が飛んで行く。
「視点は違えど思いは同じはずよ。《封印せし記憶の断片、資格有りし者共の鍵を今こそ開け放たん》」
柔らかく紡がれた詠唱がまるで子守唄のように二人を包むとそのままどさりと床に臥す。慌てて駆け寄るクレアにアリアは優しく諭す。
「二人は眠っているだけよ、大丈夫」
冷静に耳を澄ませば規則正しい呼吸音を奏でる二人。ぐったりとヴィルヘルムにもたれかかる彼女を見れば術が大きな負担になっていたことがわかる。
「あの子達は私達の見てきた王国も知ることが出来る。だから私達は今まで生かされていたのかも」
そう言ってヴィルヘルムの腕を強く握りしめる。全てが布石ならば甘んじて受けなければならない。それがこの国を作り上げた女神の意志。懇々と眠り続ける二人の表情は子どものようにあどけなかった。
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