光のラナンキュラス

Act.15 動く時、止まる時


 埋もれた記憶、消し去られた人々。それを隠そうと添えられた手は今退けられた。燃え盛る炎が包んだ日、乾いた風が吹き荒れていたのを忘れていた。

 世界は現実を拒絶するかのように色を失っている。見渡す限り灰色の世界が広がる。だが、目覚めた建物の中は確かに覚えていた。テオフィールはむくりと起き上がると辺りを見回す。先程アリアの腕の中で術を解かれた筈なのに自分自身に変わったところは見られない。近くで気絶していたエリクを叩き起こしてその反応を確認しようとした。

「うわー……此処何処?」

 予想していた通りの反応、確かに術が発動するのを感じたのに何故記憶が戻らないのだろう。テオフィールは面倒くさそうに眉を潜めた。そんな兄の表情にエリクも肯定を示す。

「記憶を取り戻すとは厄介なことだな」

「同感……だけどレイヴァスの城じゃないか? 俺達がそうだと言うんだし」

 敢えて王子と言わないのはまだ認めていないから。恐る恐る辺りに向ける萌葱の瞳は世話しなく物を捉える。深紅の絨毯に彩られた回廊、澄み切った硝子を見ればここを歩いたのかもしれないと錯覚に陥る。考えれば考えるほど頭の中で記憶を作り上げてしまう。だけどもそんな記憶はいらない、自分の見たものだけの記憶が欲しいだけ。

『真実を受け止める強さはある?』

 不意に響きわたる声は幼く、高い。振り返れば小さな男の子が二人を見上げる。煌々と煌めく瞳は青碧色、それに気が付いたエリクが思わず声を上げる。

「嘘だろ、兄貴かよ……!」

 二人の顔を見比べれば確かに面影がある。咄嗟に少年の腕を取ろうとしたテオフィールの手が空を切った。
 ――幻だ。
 もう一度テオフィールの顔を見上げると少年は廊下を駆け抜ける。その後を追い掛けようと二人は走り出した。直線の多い廊下は追い掛けるには丁度良いくらいだ。少年はちらりともう一度二人の様子を見ると部屋の中へと入っていった。まるでその部屋に導くことを目的とするように。少年が入っていった扉を見上げればかなり簡易な装飾を施された扉はかなり大きく、重々しい。恐らくあの少年はすり抜けていったのだろう。開けられたような形跡は無い。その扉にテオフィールは静かに手を掛けた。力を込めて開け放った扉の先には一人の女性。まだ産まれて間もない赤子をあやしながら子守唄を歌う。その瞳はエリクと同じ萌葱の瞳。

『おかえりなさい、テオ、エリク』

 柔らかく微笑む女性を凝視していたエリクはしっかりとテオフィールが呟いた言葉を聞き取っていた。

「……母上」

 確かに生んでくれた母は優しい千歳緑の色をしていた。驚愕の表情を浮かべるテオフィールに反し、エリクは確証が持てない。それもまだ赤子だったせい、幼い頃に見た人はうろ覚えである。

『こんなに立派になって……本当に嬉しいわ。でも初めましての方が良いのかしら、記憶は曖昧だから困るのよ』

 一人のんびりと呟く彼女は愛しそうに腕の赤子の髪をすく。灯の光に煌めく茶髪は繊細で可愛らしい。ゆったりと眠る赤子に反してエリクは世話しなく部屋を歩き回る。テオフィールの様に感覚が覚えていないか必死なのだろう。何かを見出そうと隣の部屋へ続く扉に手を掛けた。

『死して子に会えるなんて幸せものだわ』

「死んで、いるのですか?」

『えぇ、現実世界に関与できない代わりに夢の世界ならばなんとかして潜り込むことが出来るの。とは言っても此処は複数の人の精神世界が入り混じっているわ。……残り時間は少ない』

 だから、記憶を見付けなければならない。テオフィールは眼の前に座る女性に優しく問いかける、もう母にどうやって接すれば良いのか分からなかった。言いたい事も聞きたい事も山程あるのに言葉が中々出てこない。辛うじて言えたのはたった一言だった。

「貴方のことを聞かせてください」

『私はエルフリーデ。貴方達の母であり、王妃であるわ。あれはニ十一年前――』

 晴れの日が続いた年だった。東に位置するレイヴァス王国は春の象徴、晴れは女神が王を祝福しているとして喜ばれる。春の王――蒼帝として君臨する代々の王は民から愛されていた。だが、平和は例外なく長くは続かない。突如として軍を司るブラントミュラー家が反旗を翻したのだ。それも民に分からぬよう、内密に。

『ライナルトに捕われたあの方を助けることもできずに過ごす日々、あれは悪夢でした』

 一個人として政を司るデーベライナー家と魔を司るドレッセル家、法を司るエーレンフェルス家に会見を申し込んだが、三権分立を侵すとしてエーレンフェルス家には会うことが出来なかったが、四大貴族の半分に実情を話せただけでも大きな収穫だった。
 ――王は捕らわれ、王の名の元に逆臣が政治を行っている、と。

「どういう意味ですか……」

『魔道士大虐殺が起きる前にあのお方――父様はライナルトに監禁されてしまったのです。民衆はあの忌々しい事件を父様の所為としていますが実際はライナルトが父様に似た人を仕立て上げ、行った事です』

 その結果起きた事は魔を司るドレッセル家を断絶させてしまった。他の貴族をこれ以上巻き込まない為に彼女は二人の王子を逃がしたのである。

『この国は四大貴族と王によって大地が成り立っていると言って過言ではありません。一つの家に一つの加護を司る。この摂理は古の時代から続いています。それを壊してしまえばどうなることか――』

 想像するだに恐ろしい、という表情をする彼女にテオフィールは先を促した。

『そして私はヴィルヘルムとアリアに貴方達を託し、あの方と共に身の潔白を記す文書と証拠を残し、自害しました』

 淡々と語るエルフリーデの瞳に後悔は無い。テオフィールの脳裏にもその時の光景が浮かび上がる。――覚えている、アリアが兄弟に術を掛ける寸前まで彼女はずっと自分のぬくもり、言葉を伝えていた。

「覚えてる……母上は最期まで俺達を気にしていた。記憶を消す前に俺に言いましたね、いつか会える日まで、と」

 言葉はそれだけでは無かったが強い印象に残っていた所為か、すんなりと言葉として出てきた。だけどもエルフリーデの言う潔白を記す文書と証拠、それは一体どんなものか。それを口に出して聞く前に彼女が先に告げる。

『王宮に戻れたなら直ぐに『蒼空の回廊』にある王の私室へ行きなさい。そこに手紙と魔道具があります、必ずそれをエーレンフェルスへ届けるのです』

 余りにも真剣な眼差しにただ頷くしか無かった。だが、直ぐに笑みを浮かべたエルフリーデは幼い赤子を抱いたまま立ち上がる。ゆっくりと窓に歩み寄ると灰色の景色を見上げた。変わらぬ景色、変わらぬ色。いつでも彼女の目に映っていた景色は灰色だった。
 その時、腕に抱いていた赤子が深緑の光に包まれる。淡く天へ昇っていく光を見つめると漸く納得したようにテオフィールに向き直った。

『さぁ、あの子は旅立った。貴方も行かなくては』

「でも……!!」

『私はまだ消えない、大丈夫よ』

 時間が無いと告げたのは紛れもなく彼女。腕に抱いていた赤子はもう光となって消えた。もうエルフリーデに時間は無いのは確かなのに。周りを見渡せば部屋を彷徨いていたはずのエリクの姿は何処にもない。半開きにされた扉を視界に入れると彼はそのまま歩き出した。微かに聞こえる声を追いかけて取っ手に手を掛けた。

『行こう、テオフィール。僕はずっと君と一緒だよ』

 足下に佇む少年に手を差し出すとその手を優しく握りしめた。部屋に一歩踏み入れれば爽やかな柑橘の香りが鼻を掠める。そしてその先にいたのはエリクと同じ顔つきをした青年。きっちりと甲冑を着込んだ青年の表情は精悍で逞しい。

「予感って言うのは当たるんだな、リカルド」

『俺は想いを君に継いで、君の中で眠る。彼女も、君の兄貴も同じ』
 やるべき事を既に分かっているなら、もう眠る事にしようと言って微笑を浮かべた顔はエリクの笑顔と同じ。淡いその姿は彼に吸い込まれるように消えた。

「誰だ……?」

『人にはやり残した事が必ずある。その思いが強ければ強いほど、時空を越えて想いを受け継ぐ。言わば、生まれ変わりだね』

 幼い中に聡明さを感じるのは此処が幻の世界とわかっているからだろうか。しっかりとテオフィールの手を握り締める彼は少なからず何処か不安そうに見える。

『思いを受け継ぐことは過去の人と同化する。それに耐えられるだけの精神は僕達にあるかな』

「案ずるな、今生きているのは俺達だ」

 そうだよね、と呟いた子どもに漸く笑顔が戻ってくる。幼い頃の自分はこんなにも素直だったのかと考えると少し恥ずかしくなった。

『ほら、来たよ』

 とんとん、と歩み寄る足音。長い薄水色の外套を纏い、新緑の衣装に身を包む女性がそこにいた。鋭い青緑の瞳はテオフィールを見据えると漸く口を開く。

『お前か……なるほど、似ている』

 彼女の言葉を合図に部屋に光がほとばしる。一気にその場所はただの部屋ではなく、王の間へとなり変わった。深紅に染められた床は豪華で正に王宮という言葉がしっくりと来る。女性はそっと玉座に歩み寄ると腰を下ろし、長い足を組んで見せる。堂々とした風格は何物も寄せ付けない棘がある。微かに冷たい怒りのようなものを感じとっていた。

『お前の守りたい者はまだ分からないようだな……昔の私と同じだ』

 テオフィールに誘われて歩く子どもに微笑を浮かべると優しくおいで、と囁く。少し戸惑いながらも女性の腕にしっかりとしがみついた子どもは嬉しそうな顔をしていた。

『まだ、子どもを抱く力があるのだな……変わらない、か』

「お前は何者なんだ」

 見つめ合えばまるで鏡を見ているような錯覚さえ覚える。だが、その強烈な存在感の元にはテオフィールこそが幻に見えた。

『【慈悲神レイヴァス】と言えば分かるか?』

「じゃあ、お前が――」

 レイヴァス王家の始祖であり、テオフィールの先祖に当たる人物である。そして、こうして対話している事を考慮すれば自分は差し詰め慈悲神レイヴァスの生まれ変わりと言う所だろうか。
 ――笑えない、本当に笑えない。
 王子という身分だけでは飽きたらず、天は更に複雑な状況に彼を追い込むらしい。テオフィールは子どもの自分と戯れる慈悲神と呼ばれる女性を見つめる。すると彼女もテオフィールと同じ様ではあるが自嘲するような笑みを浮かべた。

「お前は俺との対話で何を示す?」

『何も言う気は無い。思いを託せるかはただ、自然が決めること。過去との因縁が強ければ強いほどお前は私に近くなる。……だが、お前には私の思いなど分かるまい』

 暗示と諦めたような言葉に思わず瞳を細める。何も話さないで思いが分かる人間など何処にもいない。言葉に出さなければ思いは伝わらない。昔に言われた言葉が蘇って思わず上着の胸元を握りしめた。
 だか、慈悲神はそんな事も露知らず、抱いていた子どもを下ろすと言い聞かせるように口を開いた。

『忘れるな、お前が何かを得て、何かを失った時、それが私が思いを託すときだ……焦らないで、私だって自分の生まれ変わりは可愛い』

「光栄だ、と言えば良いか?」

 皮肉めいた言葉に怒ることもせずにただ、やはりなと口元に笑みを浮かべる慈悲神。薄れゆくその姿は次第に小さくなり、一瞬強く煌めく光となって霧散した。

『僕ももう戻らなきゃ』

「分かってる、テオフィール」

 辺りを見回せば豪勢な王の間ではなく、簡素な部屋に戻ってきている。流石にエルフリーデの言った通り時間切れになったらしい。見上げてくる幼い自分も消えた慈悲神と同じように消えつつある。しゃがみこんで幼い頃の自分と目を合わせる。余りにも低いその視線は確かに一度は経験した事がある低さ、大人は皆立派に見えて、大きく頼りがいのある姿だった。いつも先を行ってしまう大人達に不安を感じていたのをよく覚えている。
 彼は歩み寄る幼い自分を両腕でしっかりと抱き締める。小さく脆いその体、それでも暖かくて心地良い。

『僕達はずっと一緒、テオフィールである限り。エリクレスタと仲良くね、あいつすねると直ぐに泣くんだ』

 エリクレスタ――それは恐らくエリクの正式な名前だろう。余り聞かないその響きに身分を見い出されるの恐れたため、愛称で呼んでいたのが推測できた。

「さようなら――“俺”」

 そう呟くと大きな青碧の瞳を嬉しそうに細めて彼は腕の中に消えた。掌にはまだ微かに温もりが残っている。それは彼が確かにここにいた証拠、そして自分が此所に存在していることを実感できる。

「兄貴、小さい頃は可愛かったんだな」

「黙れ、泣き虫」

 にやにやと笑って声を掛けるエリクに悪態を吐く。記憶が戻った今ならば、彼との喧嘩には全て勝ち抜くことが出来そうだと思う。

「一つ聞きたい、母上」

 近くにいるであろうエルフリーデに語り掛ければ、直ぐに優しい千鳥緑の瞳をもった女性が目の前に現れる。少し疲れたような表情は既に二人の精神に干渉することに限界だからだろう。

「何故、父上はいらっしゃらない」

「それは俺も同感」

 自分達がアルディード帝国で生きるきっかけを作ったのは紛れもなく父王、本来ならば息子達の精神に干渉するくらいの力は持っていても良い筈だ。

『あの方はとても恥ずかしがりやさんだから……貴方と似て、ね?』

 ここに居なくても貴方達を愛してらっしゃるわ、と微笑を浮かべるエルフリーデに何処かはぐらかされたような気がする。そんな彼女の体は次第に光を纏い薄れていく。透けていく自分の掌を悲しそうに見つめたエルフリーデは目に焼き付けるように二人を見つめると両腕で包みこむように二人を抱き締めた。

『私は思い残すこともありません……思うように生きなさい』

 既に自分達を包みこむ腕に暖かさはない。次第に崩壊し始める肉体に二人は顔を見合わせる。まだ沢山言いたいことがあるのに言葉が繋がらない。ずっと待っていてくれた人との別れがこんなにも呆気ないなんて――。

「行かないでくれ!」

 光は無情にも空高く舞い上がり破裂して消える。叫んだ言葉は何も引きとめることはできなかった。あの時と同じ、生き抜く事さえ難しいあの国で彼女を置いてきた時と――。



+++++++++



 微かな叫び声、悲痛な心が突き刺さる感覚。猩々緋の瞳が揺れる。何処からか聞こえたわけではないのに心が涙を流す。そして思うのだ、あの人はまた大切なものを失ったのだと。無意識に瞳から溢れる涙に理由なんて分からない。ただ、悲しい。ただ、哀れに思う。

「最近の私、変よ……」

 寝台にうつ伏せになって真っ白な敷き布を力一杯握り締めた。
 レイヴァス城に来てから一週間、不安のせいだろうか。嫌な予感ばかりが頭をよ切る。なんとかして脱出出来るように城の構造は粗方地図上で把握したものの、実際に歩いて行けば完全に道に迷ってしまうだろう。

「イーナ」

 ゆっくりと歩み寄る銀の女性を見上げた。珍しく黒のドレスに身を包むユーディトの瑠璃の瞳は美しく映える。だが、その瞳は驚いたように微かに大きくなった。

「大丈夫?」

 優しく問掛けるユーディトにそっと頷く。優しく髪をといてくれる彼女の掌は暖かい。不安で堪らなかった心を解きほぐしてくれるよう。悲しさを紛らわすように問いかけた。

「今日は特別な日なの?」

 色物を好むユーディトの身を包む黒。イーナは少し目を擦ると体を起こした。

「五年前の今日、先のデーベライナー公爵が亡くなったの」

 穏やかに微笑む彼女に言葉が詰まる。先のデーベライナー当主と言えば彼女の父親に他ならない。

「五年前に大きな流行り病があったわ……国王がいないせいだという噂も立ったけど宰相は否定した。本当の話を否定しても何にもならないのに」

「その話だと国王が流行り病を防いでいたみたいだわ……」

 船に乗った際にフィリーネが言った言葉が蘇る。三国が均等の力を持ってこその平和。一つでも崩壊の一歩を踏み出せば他の国も巻き添えをくらう。

「そうよ。跡継ぎのテオフィール様はご存命だったけれどアルディード帝国にいては力も及ばない……力に目覚めていなければ尚更だわ」

「そのテオフィール王子は“お目覚め”みたいだぞ」

 不意に部屋に響いた軽い声。そこには今いてはならない人物が笑っていた。ユーディトと似た顔つきの瑠璃の瞳を持つ男性は一人しかいない。

「随分とてこずったようね」

「無茶言うなよ、ユーディ。失礼な話だが叔父上の命日を覚えている兵士なんてそう多くないぜ?」

 わかっている、と呟くユーディトの肩を抱く漆黒の礼服に身を包む男は紛れもなくカイザー。中途半端に長い髪は綺麗に結い上げられ、精悍な顔付きが露になる。

「でもどうして入れたの? 貴方達を追って兵士たちがうろうろしているのに」

「俺達、有力貴族の伝統でな。当主が亡くなった日は無条件で喪服でいて死者を敬う。それに喪服で死者を敬う人を捕える程兵士も馬鹿じゃない」

 つまりは彼を城門で引き止めた兵士達に悪態を吐きたいのだろう。彼は卓上のポットから紅茶をいれるとすすりながら窓から空を見上げた。

「すっげーや。雲がどんどん晴れていく」

「王家の炎の加護ね……もう一つは王妃様の風の加護、弟君?」

 空に浮かぶ雲は炎と風の力で瞬く間に空から姿を消していく。精霊魔術の発達したレイヴァスでは四大貴族と王家にもたらされている精霊の加護が土地に大きく影響をもたらしているのだ。その加護は古代の女神が王となった時から今日まで続いているという話ではあるがその実態を知るものはその影響下にある者達だけ。
 晴れ渡る空にもう灰色の雲は何処にも無い。カイザーはそれを確認すると窓際に座り込んだ。

「なら、好都合ってやつだ」

 握りしめた銀の懐中時計。それは新たに顔を出した日差しを受けて煌めく。長く待ち続けた時が漸く来たのだ。記憶も力も戻ったテオフィールならば正当な世継ぎとして主張する権利がある。この時の為に二人はじっと耐えてきたのだから。

「まだ無茶をなさるおつもりですか」

「よう、ヘンゼル。見ない内に立ち聞きの趣味を増やしたのか?」

 大きく扉を開け放って入ってくる紺色の珍しい色を持つ青年と無表情のまま後をついてくる赤毛の少女。先日会ったばかりの二人ではあるがその気性はなんとなくイーナには分かった。

「カイザー様の活動はデーべライナー家を破滅に追いやるかもしれないんですよ!?」

「止めなさい、ヘンゼル。カイザーは誰よりも私たちを考えてくれている。それに……私は決めたの、誰よりも戦わなければいけないのは私」

 静かな声でゆっくりと諭すユーディト。この人達の決意は並々ならぬものなのだと改めて痛感させられる。彼女は立ち上がると溢れたショールを優しく握りしめた。

「それに今日じゃないと出来ないこともあるわ」

 監禁状態にあるユーディトが唯一自由に動ける日。父親の死すらも利用しなければならない悲しさを胸に纏っていた漆黒のドレスを翻すとユーディトは扉の向こうへ消えた。

「グレーテル、貴方はどうしたいの?」

 ずっと出ていったユーディトの背中を追い掛けるように扉を見つめ続けるグレーテルにイーナはそっと問掛ける。勿論、彼女が家長に従い続ける一族の出身だとしても意見はあると信じてる。漸く扉から視線を外してイーナを見つめる灰色の瞳はただ無垢だった。

「ユーディ、助ける。それが、守護士」

 灰色の大きな瞳は強く閉じられる。幼いながらに貴族の一人に仕えている彼女にとっては今の状況を嫌と言うほど理解させられる。ましてやブリガンティアに正式に入ってはいないものの宰相側の人間というのは中立を酷く嫌う。それは真贋を見極める時間さえも与えられない。勿論、彼女はユーディトにつくのは心に決めていた事。だが将来を思えば一歩を踏み出す事を恐れたのも当たり前のことである。

「もう、迷わない」

「……うん。頑張ろう」

 無表情な瞳の奥に微かな笑みが浮かぶ。グレーテルは素早く背を向けるとユーディトを追いかけて部屋を飛び出していく。その背を見つめながら思わず笑みが浮かんだ。色々曲がりくねっても最終的には真っ直ぐ歩む事が出来る事。素直に生きる者に与えられる唯一の救いなのかもしれない。

「グレーテルは決めたぞ?」

「私だってユーディト様に忠誠を誓っているのは言うまでもありません。ですが、私が問題としているのは宰相側の装備です。あれは魔法さえも跳ね返す力を持っている、私達が主力としているのはその魔法なのです!」

 ヘンゼルが懸念するのも確かであるがカイザーも既にそれは承知している。そして準備が整ったからこそ行動を起こすと言っているのだ。まさか、何も準備していないと言う事は無いだろうとヘンゼルとイーナが彼に視線を向ければ、彼は宙を見つめたまま何やら考え込んでいる。

「カイザー様……もしかして」

「だーー! 今考えてるだろ!!」

 噛みつくように言い放つ彼は本気で何も考えていなかったのだろう。少し焦ったように考え続けるカイザーにヘンゼルは既に呆れたような表情を浮かべる。

「全く……貴方という人は頭として動いていながら何もしていなかったというのですか!?」

「戦力は寧ろ変わっていないんだ。増強する事だけに重きを置いていたからな……ん?」

 突然何か思い出したように口を閉じた彼、もう追求する事も馬鹿馬鹿しいと思い始めたらしいヘンゼルはイーナに紅茶を頂けますか、と疲れ切った顔を向ける。本来ならば戦闘ではなく政治にその才能を向けるべき人であるのだろうが本当の仕事さえままならないのか、と思いながらポットに手を伸ばす。まだ暖かな陶器を握って杯に紅茶を注ぐ。甘い香りが辺りを支配し、空気を穏やかにしていく。
 その時、勢いよく肩を掴まれた。その反動で杯の中の紅茶が少し溢れた。

「な、なに?」

「完璧すぎる計画が俺の頭の中で産声を上げてるぜ! 鍵はお前等だったんだ!」

 ごめんね、と謝って紅茶をヘンゼルに手渡す。にっこりと笑って受け取るヘンゼルは既に自分の世界に入り込んだらしい。見向きもしない臣下に構わないカイザーもカイザーだろう。彼はイーナの肩を掴んだまま嬉々として説明し始める。

「最初のブリガンティアと今のブリガンティアの違いは内にいることと外にあること。内にはイーナとユーディト。外は俺率いるブリガンティア、更に外にはテオフィールがいる! これは完璧な包囲網だ!」

「うん、テオは戻ってくるって言ってた。でも、魔法が効かないんだよ?」

「それは君の担当だ、イーナ」

 私、と首を傾げればそれは直ぐに思い当たる節が浮かび上がった。それは時を止める能力、戻す事も進める事も出来ないがそれだけは彼女の中で能力として確立されている。話によれば嘗てブリガンティアであった自分の母も同じ能力を持っていたとか。

「もしかして空間全部に魔術を施すの?」

「時間は空間をも越えるだろ? 範囲は関係無いだろ」

「わ、私の力は時間を凍らせているだけで……」

 その言葉におや、と首を傾げる。普通時間とは世界全体に共通するものであり、根本を止めてしまえば世界は静寂に包まれるのだが――。

「時間に干渉する能力はあるようですが……実際に影響は出来ない。本来生まれ持っていた能力を使って無理矢理止めていると言ったところですね。それでは力の分配が上手く出来ずに暴走してしまうでしょう。実戦向きとは言えませんが?」

 手を止めるヘンゼルは話の趣旨だけを聞いて細かく分析を始める。それにはカイザーも反論せずにただ頷いただけだった。

「四日……か。何とか能力を覚醒させなきゃいけないな」

「もしかして本気でたった四日で完全覚醒まで持ち込む気ですか!?」

 詰め寄るヘンゼルにそんな事はしない、と告げて押し返す。レイヴァスにおける魔術が何たるかをイーナは完全に把握できてはいない。ただ、『覚醒』と『完全覚醒』が異なる意味を持つのだろうと推測できただけだった。

「故郷であるレイヴァス王国に帰還した事、ユーディと一緒に生活していること。この二つがあれば嫌でも覚醒が始まるだろうさ。気持ちは楽に持て」

 覚醒について、あまり深くは聞かない方が良いのかもしれないと思った。ただ、自分が自分で無くなるのは嫌、とかそんな他愛もない想像しか出来なかったからかもしれない。

「でも、クレアちゃんにどうやって知らせるの?」

 動き始めるのは四日後、アルディード帝国に逃れている彼女を呼び戻すには同じくらい時間が掛かるだろう。彼女がいなければ、即ち――敗北。

「心配は無用です。情報の伝達、整理は私の得意分野ですから」

 ことり、と卓上に杯が置かれる。全て飲み干された杯からはまだ微かに暖かさが伝わってくる。にっこりと微笑んだヘンゼルも漸く決意を固めるに至ったらしく迷いの無い生き生きとした表情を浮かべていた。片手を胸の前に添えて一礼する彼はカイザーをユーディトと同等に認めたのだろう。外套を翻して部屋を出る彼の足取りは軽かった。

 全ての始まりまであと四日――。


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