月光のラナンキュラス
Act.7 少しの我が儘
遠くから教会の正午を告げる鐘が鳴る。その音に漸く夢から現実へと引き戻された。
一体どれくらい寝ていたのだろう、いつもならば侍女達が起こしに来るが此処では客人。起きる時間も全て自由である。そんな事を考えながら腕に抱いていた大剣にそっとくちづける。今日も一日命を守ってくれる相棒に感謝を送るのだ。
元々はアルディード帝国で傭兵をしていた彼――エリクは宗教と言うものに全く興味がなかった。だけどもある人が剣に口付けをしていたことが切っ掛けで単純にかっこいいと思ったのが始まり。その人は剣神オルトリンデに感謝の気持ちを表していると言っていたが当時の彼の耳には入っていなかった。
『やるなら、意味のあることをしなさいな』
男も敵わないような強さと華奢な外見に似合わない巨大な剣を携えたその人はそう彼を諭した。その言葉は彼の心に種として芽を出し、今では花を咲かせている。
「今さら昔を思い出すかー……歳を取ったな」
一人寝台にごろんとなりながらぽつりと呟いた。
誰もが等しく老いていく世界で絶対に老いないのが亡くなった人。その助言した人も彼の記憶の中で時を止めたまま。きっと兄の記憶の中では鮮やかに動き回っていることだろう。
彼はそんなことを思いながら体を起こした。外を覗いてみれば、流石は駐屯騎士団ということもあって多くの騎士達が鍛練に励んでいる。刃を潰した剣で向かい合う者や、素手で組手を行う者。武に長けた王子と噂されるエリクの瞳は俄然輝いた。彼は腹が鳴るのも構わず、簡単に身支度を済ませ、大剣を片手に部屋を出ると一目散に外へと飛び出す。レイヴァス王国とはまた違う爽やかな風が頬を撫でた。
「おーい、あんた勝負しないか!?」
エリクの高らかな声は鍛練していた騎士達の間に響いていく。その声に誰もが振り返るが彼は全く気にしていない様子だった。
「私、ですか?」
鍛練を行う騎士たちとは少し離れた場所で休憩をしていたらしい年若い騎士に声を掛ける。とは言っても年齢はエリクと大して変わりはないだろう。兜越しに少し驚いたような表情を見せた騎士だったがゆっくりと息を吐いて呼吸を整えると彼に歩み寄った。
「よろしくお願いします」
手にしていた剣を真正面に構えた騎士。エリクも同様に背に抱えていた大剣を握ると片手だけで剣を構えて、笑った。
余りに対照的な二人の剣技はぶつかり合うほどその違いが滲み出る。無駄の無い動きで攻め立てる騎士の刃とそれを器用に、且つ踊るように踏む足捌き。受け止める方は余裕さえ感じられる。
「本気出しても良いかな」
呟くような低い声に攻め立てていた騎士はぞくりと背筋が粟立つのを感じた。その瞬間にはもう攻め立てる方は変わってしまう。急に踏み込んできた一歩を避けたのが始まりだった。
大剣に似合わない細かな表情を見せる切っ先。仲間の大剣使いと何度か手合わせをしたことがあったが殆どが力任せの剣技だった。
「くっ……!」
「さっきの勢いはどうした? 結構期待してたんだけどな」
煽るような口振りに騎士は瞳を鋭くさせる。少しでも誰かを期待させることが出来たのならば自信が持てる。彼は細やかに隙を突いてくるエリクの剣の力の方向を柔らかく反らすと再び強く一歩を踏み込んだ。
思ったことはただ一つ――剣を両手で持たせることだけ。
「うわあああ!!」
渾身の力を込めて振り下ろす剣をまともに受けとる大剣。打ち付ける度に金属音が耳に付く。
だけども反撃はそれだけで終わってしまった。いつの間にか背後に回られて首元に添えられる大剣。大きく息をする胸元のせいで皮膚の薄皮が少し切れて赤が滲んでいた。だけども浮かんでいたのは笑み一つ。
添えられた大剣はぶれないように両手で握られていたから。
「あの反撃は予想外だったなぁー……お前、名前は?」
エリクの問いかけに直ぐ様答えようとするが喉が張り付いてうまく声が出ない。軽く咳払いをすると漸く元通りの声に戻った。
「お忘れですか? ……セルディアです」
「あぁ、フィーリ王女のお付きの一人かぁー。兜被ってたから分からなかったぜ」
剣を下ろしてにこやかに笑う彼には悪気はない。寧ろ他に他意はなかったように見える。だけども遊びの様な感覚で振り回す剣に勝てなかったことが悔しかった。元々セルディアに剣技の才能があった訳ではない。だけども物事や人を見る目が誰よりも備わっていた。現人神と称されるフィーリ女王よりも。
「殿下は本当に……おおらかな方ですね」
心の底から呟かれた言葉に彼は不思議そうに顔を傾げたが直ぐに照れたように頭を掻いて視線を逸らす。別にセルディア自身は褒めたつもりでは無かったのだが彼にとっては褒め言葉の一つだったらしい。
苦笑いを浮かべた時、不意に耳鳴りが走った。余りにも強く刺すような音に思わず耳を押さえる。だけども目の前に佇むエリクは一点を見つめたまま動こうとしない。辺りを見回せば訓練をしていた騎士達もセルディアと同じ様な状態になっているらしい。床に打ち伏して藻掻く姿が見られた。
「殿下……殿下!!」
声を振り絞って声を掛けても何かと話しているような風にしか見えない。耳を澄ませて精神を集中すると次第に彼が何を呟いているか聞き取れた。
『貴方の大切な者を守るためには宿命の鎖を切らなければ。さぁ、私が手伝ってあげるわ』
「宿命の、鎖?」
『あの子や貴方の兄さんも捕らわれているわ。壊して、解放してあげなければ』
甘い甘い魅惑の声は女のもの。耳を突くような痛みと音がなければセルディアもこの声に乗っていたかもしれない。
――そう、これは魅惑の声。
視線をエリクが見つめる先に向ければ純白の衣を身に纏い、裾からはほっそりとした脚を覗かせる美しい女がいた。だけども翡翠を宿す瞳は時折妖しげな赤に変わっては見つめるものを惑わせている。恐らく彼女の瞳が魅惑の要因。覚まさせる為には何とかして視線を外させなくては、だけども今の彼女では気を保つだけで精一杯だった。
「畜生、何だってんだ。あの馬鹿王子!」
「あの女は一体……?」
騒ぎを聞きつけて駆けつけたカイザーとユーフェミアはエリクの様子を見るなりそれぞれの反応を見せる。強い魔力を持つ血筋故に自分よりも強い力に耐性を持たない彼はどうやら影響を受けやすいらしい。だけどもユーフェミアはセルディアを庇いながらも違う方向に眼を向けていた。
「姫、セルディアを連れて離れろ」
ゆっくりとエリクに近寄りながら二人に呼びかける彼にユーフェミアも素直に頷く。だけども予知よりも早く彼女の感覚が嫌な予感を告げていた。だけども傍らで力なく蹲るセルディアを見ればそうも言っていられなかった。直ぐさまそれは目の前で繰り広げられた。
いきなり大剣を抜きはなったエリクはカイザーに向けて大きく振る。直ぐさま短剣を抜いたカイザーだったが敢えて受け止めることはせずに後ろに下がって剣撃を避ける。刃の面積が大きい大剣を上手く受け流すことが出来ても短剣は脆く、崩れてしまうだろう。
手早く手刀を叩き込んで気を失わせてしまえば手が施しようがあるものの、なまじ武術に長けているせいでカイザーも身を守るので正直、精一杯である。
「水でも被って目を覚ませよ、馬鹿王子! 《凍てつく水泡よ、彼の者に冷徹なる清き洗礼を!》」
早口で罵倒と共に放たれた言葉は直ぐに水色の魔方陣を天に描き出すと雨のようにエリクに降り注ぐ。だけども精霊魔術の栄えたレイヴァス王国とは違い、祈祷魔術の栄えたフィーリ王国ではその威力を十分に発揮できないようだ。カイザーは忌々しそうに舌打ちすると軽やかな身こなしで短剣での攻撃に転じた。
「あの女、私知っているわ。遠い、遠い昔に」
二人の死闘を見つめながらユーフェミアはエリクの後ろでせせら笑う女をじっと睨み付けてる。片手には護身用のボウガンが握られているが空いた手はセルディアを労うようにその背を擦っていた。
「……遠い昔等、外に出ることさえ、叶わなかったではないですか」
「えぇ、分かってる。それよりとずっと前」
もしかして彼女の身に宿している女神フィーリの記憶の事を言っているのだろうか。時折見せる人外の奇跡にそれを思い知らされるが記憶までも持っているとは思わなかった。
『あれは翠緑の魔女よ』
頭に響くフィーリの声が確信に満ちていた。ユーフェミアの瞳を通して見る彼女に昔と変わらない何かがあったのだろう。少し苛立ったように感じられる。フィーリが言葉を発した瞬間にエリクの後ろにいた女はぎょっとした表情を浮かべて此方を見つめたかと思うと彼女達に向けて素早く手を翳した。
柔らかかった風は刃のように鋭くなって鎌鼬となる。それに素早くユーフェミアは両手を組むと瞳を閉じた。迫る鎌鼬に思わず両腕で顔を庇おうとした瞬間、爆発のような音を立てて鎌鼬が消える。二人を守ったのは鏡を思わせるような盾だった。
『くっ……やはり立ち塞がるのはあんた達なのね。だけどフィーリ、あんただけで私が倒せるかしら』
「私はフィーリではないわ、ユーフェミアよ」
『ユーフェミア、構わなくて良いわ』
制止するフィーリの声に従い、猫眼の瞳を細めて目の前に浮遊する魔女を睨み付ける。翠緑の魔女は彼女がフィーリを宿していることを知っているらしい。
『私にはどちらも同じよ。レイもアルデシアも……今度こそ負けない』
紅を指した唇が弧を描く。その表情をユーフェミアはじっと睨み付けながら気を集中させるのを止めない。だけども古代を生きた翠緑の魔女――リアは最早彼女には興味を失っていた。リアはふわりと舞い上がるように素早くエリクの側に降りると甘い言葉を小さく連ねていく。その言葉は全く此方には届かない、だけども次第にエリクの表情が歓喜に満ちていくのが分かった。
「エリク、目を覚ませ。俺の声に集中しろ!」
対峙しているカイザーの緊迫した声が突き刺さるが全く彼には届いていない。それよりもいつもは浮かべることのない不気味な笑みを浮かべながら大剣を一振りする。ぶん、と嫌な音が鳴った瞬間にカイザーは体勢を低くして一撃を避けた。そのまま素早く足払いを仕掛けたが動きを読まれたらしく簡単にかわされた。
「くっ……」
やはり戦いづらい。正気を失っていると言えども相手は自国の王子。本気で剣を向けてくるのを相手に弄ぶことなど出来ない。
周りに力を借りるにも隣に漂う女が放つ魔力の圧力で騎士達は動けない。最悪の条件が彼の思考の柔軟さ奪っていた。操っているのはこの風に乗るようにふわりふわりと宙を漂う女。その力さえ奪ってしまえばどうという事は無い。カイザーは掌の中で短剣を回すと詠唱することなくその切っ先から水泡を放つ。猛烈な速さを上げて翠緑の魔女――リアに向かって襲いかかった。だけどもそれに慌てることなくリアは微かに笑みを浮かべると水泡を片手で振り払う。すると水泡は煙を上げて蒸発していった。
「何だと……!?」
『甘いわよ、元々その力は私達のものだもの。勝てるわけないでしょう』
くすくすと笑う彼女の手には燃え盛る青い炎がゆらゆらと煌めいている。その力は彼が知る限りでは仕えているレイヴァス王にしか使えない筈。何故、と呟く前に背中が熱く焼けるような痛みが走った。がっくりと膝を着いて視線だけを後に向けると冷たい眼差しとぶつかる。そしてその手に握られている剣は赤に染まっていた。
「エリ……ク」
霞む視界に緑眼が映える。力と体温が抜けていく感覚に恐怖感を抱きながら辛うじて擡げていた頭を地面に預け、瞳を閉じた。
『さぁ、始末して。そうしたら貴方の大切な人を救いに行きましょうか』
血の気が失せ始めたカイザーを一瞥してリアは微笑を浮かべる。だけども傍らのエリクの手は微かに震えていた。緑色の瞳は微かに揺れて強く輝き出す。それまで操られていた無機質な輝きではなく生気が戻ったような輝きを帯びたかと思うとそれは強く閉じられた。何かを迷っているような苦悶の表情を浮かべながら彼は剣を鞘に戻すと踵をした。
『な……!?』
魅了の術で傀儡化している筈なのに命令を聞かない。そんなことは生まれて初めてだった。語りかけた時の恍惚とした表情、仲間である人間までも切り捨てた非情さ。それなのにどうして今になって言うことを聞かないのか。森の奥に消え行く彼を追いかけるようにリアは一陣の風を呼ぶとそれに乗って姿を消した。
「カイザー殿!」
『まだ息はあるわ、早く術を!』
それまで騎士達を庇っていたユーフェミアは血溜まりに倒れ伏したまま動かないカイザーに駆け寄るとそのまま体を抱き起こそうとしたがフィーリの言葉に我に返った。無闇に動かしても地を失ってしまうだけ、ならば自分の力に頼るしかない。
「他の奴等は任せろ。セルディア、動けるなら手伝え」
突如として降ってきた声にはっと顔をあげる。そこにいたのは眉間に皺を深く刻んだアルフレートだった。その手には医術用具一式がが握られている。
「今まで何処にいたのよ……」
ぽつりと呟いた声が微かに震える。そんなユーフェミアにアルフレートは苦笑した。
「アンタみたいに特別な力がある訳じゃない。途方もない力を目の前にして動けないのが凡人さ」
どんなに天才であっても、力自慢であっても勝てないものはある。ならばもっと平凡な才であれば良かったのにと心底思う。騎士達を庇うのに精一杯で翠緑の魔女を止めることも出来ない神の力ならば――。
「凡人で居たかった」
両手を組んで瞳を閉じると乾いた音が辺りに鳴り響いた。頬にじんわりと広がっていく痛みと熱さに思わず目を見開く。そのまま動けずにただ呆然としていた。
「姫様、それは我が儘です。私なら神の力を存分に使って人を助けます。勿論、神の力を使えなくともそうしますが。……今更ただ嘆くだけの子どもに成り下がるおつもりですか?」
微かに震えるセルディアの声、きっと主君に手を上げたことを後で一人後悔するのだろう。だけどもそれは常に身近にいる彼女だから出来ること。何時だって目を覚まさせてくれるのは彼女だった。
神の力を与えられて嘆くのではない、宿した記憶も人格さえも存分に利用してやればいい。ユーフェミアは両手を組むと今までに無いくらい強く強く願いを込める。
(フィーリ……私を支配するのは貴方じゃない、私自身よ。だから――)
「私に力を――」
気が遠くなるくらい昔の思い出。時を重ねる度にそれは次第に薄れていく。だけどもふとした日常で鮮明に蘇る。でも今ならきっと話せるでしょう。辛い思いはもう優しい思い出になっているかもしれないから。
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