月光のラナンキュラス
Act.10 残酷な時の流れ
瞳を閉じたままゆるりゆるりと水面を漂う。暖かなその場所はまるで母の胎内のような感覚。実際覚えている訳ではないが、多分このような感じなのだろうと思う。扇のように広がる金糸も気にせずにただ瞳を宙へ向けていた。
「ここ、どこだろ」
今更ながらの疑問ではあるがゆっくりと辺りを見回す。天を見上げれば夜の帳が落ちて硝子が砕けたような空が広がっているが、その向こうを見れば目映いばかりの太陽が燦々と輝いている。朝と夜が混じり会う場所だというのは理解できたが現実でそんなことはありえない。
『此処はアトラシア……とは言っても私の記憶を再現しただけの場所ですが』
いつの間にか水面を漂う感覚は無く、固い地面にその体を横たえていたようだ。彼女はゆっくりと体を起こすと語りかけてきた人物へと視線を向けた。
「私と一緒……」
『勿論です。貴方は私、私は貴方なのですから』
穏やかに微笑みながら答える女性の容姿は彼女――イーナと瓜二つ。違うところを見つけるならばしゃべり方や仕草位だろうか。
『私はローレン・ドレッセル。貴方にお願いがあって参りました』
ローレンの名前を聞いて咄嗟に思い出した。彼女は確か初代ドレッセル家当主の妻であり、当主補佐を務めていた人物。だけども鏡を見るようなローレンの瞳は酷く冷たかった。
『貴方の体を私にお譲りください』
「え……?」
あまりに率直で真摯な言葉に思わず返事をしてしまいそうになったが慌てて言葉を飲み込む。
「待って、意味が分からないんですけど」
『至極簡単な事ですわ。貴方の魂を此処に置いていくだけのこと。此処ならば貴方の辛い思い出をいつでもやり直すことができる――過去を変えることができるのです』
――辛い思い出、と言われて真っ先に脳裏に浮かんだのは死んだエレナの笑顔。あの笑顔を取り戻すことができる。以前のイーナならば真っ先にそれを取っていただろう。だけども当主として知識を吸収している最中のイーナには一つの疑問があった。
「此処は記憶を再現しただけの場所なのでしょう? 現実になるわけじゃない」
現実になるのならばローレンは態々生きる体を寄越せとは言わない筈だ。見事な切り返しに少し驚いたような表情をしたローレンだが直ぐに変わり無い笑みを浮かべて――。
『意外です、もっと愚かな女だと思っていました』
丁寧だけれども刺のある言葉に心が揺れる。一つ一つ丁寧なのに強い軽蔑を彼女から感じた。
『貴方のように恋に現を抜かし、現実さえオブラートに包んでしか見られないような女よりも知識や教養の深い私の方がレイ様のお役に立てますもの』
「……レイ、様?」
『あぁ、今はテオフィール様でしたね。ですが今はもう関係ないのです』
彼女の穏やかだった笑みが次第に歪んでいく。それは余りにも顕著に現れてイーナの背筋を凍りつかせた。
『今此処で貴方を消せば体は私のもの』
徐に指先をイーナに向けるローレン。指先からは恐ろしいほど圧縮された魔力を感じた。
――彼女は本気だ、率直にそう思う。
イーナは大きく息を吸い込むと右手を空気を切るように下へ向ける。思い出をやり直せる場所ならばそれに必要な道具は必然的に呼び出せる。その考えを正解だと囁くように彼女の手の中に使い馴れた杖が収まっていた。
『抗うつもりですか』
「勿論です。始祖と言えども自然の摂理に反しているもの」
『愚かだわ……始祖ならば貴方は敵わないと知っているでしょうに』
「始祖が至上と思わないことだわ!」
いつもいつも守られていた。三年前だって結局はテオフィールを助けたと思ったのに自分が助けられていた。今だって地位にすがっていられるのも皆の協力がなければできなかった。
自分の意思で正しいと思うことをしたい。
イーナが杖を素早く翳すと巨大な氷塊がローレンに次々と襲いかかる。それはまるで桁違いの雹が降り注いでいるような光景。言霊も無く魔法を使う者はレイヴァス王国にも数えるほどしかいない。だけども自ら《始祖》と名乗るだけあってローレンは微動だにせず、氷塊の動きを寸前で止めてみせる。まるで絵に描いたような光景であるが、長くは続かなかった。
『時と氷、魔を司るドレッセルを忘れたとは言わせませんよ』
指先を弾けば止まっていた氷塊は標的を変えてまっすぐイーナへと向かってくる。
「《冬の到来を告げる吹雪よ、緩やかなる時と絶対零度の壁をもたらして!》」
『無駄よ? 《――吹雪よ、時を止めなさい》』
紡ぎあげた言霊をたった一言で相殺される。何とかして氷塊を避けようと走ったが地面で砕けた氷が飛び散って細かな傷を彼女に刻む。乱れた息を整えながらローレンを睨み据えることしかできない自分に腹が立つ。それをまるで読み取ったかのようにローレンは穏やかな笑みを浮かべた。
『四大貴族は貴方には過ぎた運命だったようね。だけども全て力が勝る方が勝つの。貴方が私に勝てないように、あの三人もあの方達には勝てな……』
「いい加減、話が長いわ」
ローレンの言葉を遮るようにイーナが呟く。座り込んで疲労困憊に見える筈なのにその声は明るかった。
「貴方は私を殺す目的の前に自分を殺す助言をしていたのね。気づかなくて……ごめんね」
『な……!』
自分の体を見下ろせば巨大な氷柱に貫かれている。痛覚が無いのはきっと死んでいるせい。だけども流れる血の代わりに崩れていく体。きらきらと砂のように宙へと消えていく。
「願いが叶う世界にあきたらず、現実に戻りたいの思うのは……貴方の願いが此処では叶わなかったからでしょう? でも貴方は私に此処では願いが叶うと言ったわ。貴方に勝つ、という願いが叶ったんだもん。正確にはね、貴方が有利になったことを否定しただけなのだけど……」
時間は彼女の得意分野である。集めた情報から考えれば答えは凄く簡単に導き出せた。きっといつも彼女の理解の悪さに頭を悩ませるヘンゼルもきっと合格点を出してくれるに違いない。
「この世界は死者より生者の力が勝る。生きている者に勝るものはないと読んだことがあるわ」
反論する声は響かない。ローレンの形を取っていた体は既に砂と化して宙へ消えていく。だけども襲ってきた彼女がどうしても正気に思えなかったのは何故だろう。彼女が生者から死者へなった時からかなりの年月が経っている。百年戦争終結から三十年後には死んでいただろう。そうなるとかなりの時間を一人で過ごしていたに違いない。そうなれば勿論気が狂うだろう。
「……可哀想な人」
不意に体が軽くなる。暗闇から引きずり出されるような感触に大人しく身を委ねた。
――皆に会って温かさを感じたい。切に願う心が導いてくれた奇跡かもしれないと思った。
目蓋越しに明かりを感じて現実世界に戻ってきたのだと覚る。ゆっくりと瞳を開ければ窓越しに空が見えた。いつもは美しい蒼穹なのに、何故か灰色の空。雨でも降りだすか、とそろそろと体を起こすとふらつく体を壁で支えながら窓に歩み寄る。
「な、何これ……」
それ以上、言葉が出てこなかった。何故ならば、地面を覆い尽くさんばかりに転がっていたのが小さな霰(あられ)だったからだ。レイヴァス王国で霰が見られるなど滅多にない筈だ、雪もなかなか降らない土地なのに。
――もしかしたら自分の魔力が乱れたからかもしれない。そう思って室内を見回せば見慣れたテオフィールの私室。
(……えええ!?)
自分の部屋ではないことに漸く気がついたイーナは高鳴る心臓を押さえて慌てて部屋を出ようとした。するとソファーに丁寧に畳まれた毛布と丸められた毛布が視界に入る。几帳面に畳んであるのはきっとテオフィールが使った毛布、丸めてあるのはヘンゼルだろうか。
(心配してくれたんだ……)
まさか意識が飛ばされて御先祖様と戦ってたなんて知らずに。彼女は笑みを浮かべると足早に部屋を出て、自分の部屋を目指した。ドレッセル家の屋敷もあるにはあるのだがイーナはあまり帰りたくはなかった。たった一人しかいないのにあの広大な敷地で生活するのは怖い。それをユーディトに相談すればテオフィールと直談判をして王宮の一室を貸してくれたのだ。それも王族専用の【蒼空の回廊】の一室を。感謝の言葉も言い足りないくらいである。
がちゃり、と部屋の扉を開けて小走りにクローゼットへと駆け寄ると布に包んだ拳大の宝石【氷の宝玉】を探す。その宝石はレイヴァス王国の理の加護の一つ、氷の加護を宿すもの。代々ドレッセル家が管理、司るものであるため、当主である彼女が保管しているのである。
(クローゼットに国宝を仕舞ってるのバレたら怒髪天ものだよねー)
ユーディトやテオフィールは台座の上に納め、毎日それに触れたりすることによって加護の力を調節しているのだ。だけども既にイーナが意識を失ってから目覚めるまで数日が経っている。度々鳴る空腹の知らせを押さえてイーナは宝珠を取り出した。
「うーん、久々だからまた力を馴染ませるのが……」
――大変そうだな。
そう呟いて、包んでいた布を剥がした時だった。ざらざら、と砕けた蒼色の宝玉が膝の上に零れ落ちる。それを見て頭が真っ白になった。何か違うものが砕けたのだろうか、そう思って欠片を摘まむ。それは触れ慣れた宝珠の感触に間違いはなかった。
「い、いやあああ!」
そんな筈は無い。眠る前に見た宝珠は美しい玉の形をしていてしっかりと輝いていたのに。何故、誰が、どうして。重なりあう疑問と溢れる涙で目の前が歪む。顔も覚えていない両親や先祖が守ってきたものを私が壊してしまった。
修復しようもない欠片にただ涙を流すしか出来なかった。
「イーナ、無事か!?」
慌てて駆け込んできたのはテオフィール。酷く狼狽しているように見えるのは気のせいだろうか。彼の執務室から近いこの場所での悲鳴に真っ先に気がついたのだろう。
「部屋に行っても居なかったから目が覚めたのだな」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
彼の問い掛けにうまく答えられずに譫言の様に、ただ謝罪の言葉を繰り返すイーナ。何とかして落ち着かせようと少し細くなった肩を包み込む。するとカラン、と音を立てて欠片が一つ零れた。
「これは……――」
テオフィールが片手で欠片を摘まんだ途端、イーナのすがっていた掌が緩む。
間違いない、これは【氷の宝珠】だ。そう確信して離れようとするイーナの体を閉じ込めるように強く抱き寄せる。すると彼女は少しずつではあるが夢の中で見たものを彼に伝えたのだった。
「何事ですか!?」
暫く経ってから漸く部屋に入ってきたヘンゼルにのんびりとした様子で足を踏み入れるイアン。テオフィールの腕の中で泣き崩れたままのイーナを見て、二人は顔を見合わせた。
「心配ない、ヘンゼルはユーディトを至急呼んでこい。イアンは此処に」
「やーだなー、テオの兄貴とイーナさんのラブラブっぷりを見せつけられるのかよ」
「出来る限りの最速で呼んで参ります。イアン様、首を洗って待っててくださいませ」
青筋を浮かべて敬礼をするとヘンゼルの足音が遠退いていく。イアンも先程のふざけた態度をいつの間にか消し、静かに問いかけた。
「イーナさんも先祖の夢を見たんだ」
こくり、と腕の中のイーナは頷く。それなら俺と同じだな、と呟く前にテオフィールが一言付け加えた。
「ローレン・ドレッセルに襲われ、殺したらしい」
いつものイアンなら流石ッスねー、等の軽口を叩くが彼は至って真剣だった。
「聞いてくれ、俺の仮説が正しいとは思えないが……一時でもこの国の加護は二つ極端に薄くなった」
「王族の炎の加護とドレッセル家の氷の加護……」
「だけどもこの国は滅びなかった。俺達が毎日のように触れている加護の宝珠、毎日触れることで絆を保っている。だけども触れなければ絆も弱まる、即ち……――」
「消えると言うことね」
イーナがぽつりと呟くとテオフィールはその通りだ、と頷いた。
二十一年と言う長い間ならば加護が途切れていてもおかしくはない。司る一族の者が生きていたとしても放つ加護は微々たるもののはずだ。国全体に影響を及ぼすことはできない。
「それでも私達はその摂理にしたがって生きてきました。庇護される立場にある民達は不満を持ちますわ、陛下」
扉に体を寄せながら立つのはユーディト。隣では最速で呼んでくると宣言したヘンゼルが踞って息を整えている。だけどもテオフィールは微かに眉を潜めた。何故ならばユーディトの身体のあちこちに包帯が巻かれているからだ。それを問おうとすれば彼女はお気になさらずに、とぴしゃりと言い放って話を続けた。
「陛下が即位なさって三年、王族への信頼を取り戻しつつあるこの状況を逆戻りさせるのですか?」
「そうは言っていない。ただ、俺達は加護に頼りすぎなのではないかと思っただけだ。ライナルトだって国の仕組みを知って王族、ドレッセル家を潰しに掛かった筈だ。俺にはアイツが無知には見えなかった」
嘗ての独裁者の名前が出たことに誰もが驚いただろう。テオフィールの手で葬り去った独裁者――ライナルトが国を支配する権利を持ちながら国を傾けさせる訳はない。危険をおかして王族を追いやるには目的が必要だ。
「なら、ライナルトのおっさんが使ってた部屋を調べれば何かわかるんじゃね?」
「イアンの言う通りだな……ヘンゼル」
ヘンゼルは反射的に頷く。彼はあからさまに反抗の意志を示していたデーベライナー家とは離れて王城で仕事を行っていた。彼ならばライナルトが使っていた部屋を知っているはずだ。そんなやりとりを一瞥するとユーディトはそれ以上、何も言わずに部屋を出ようとした。その後ろを何か思い出したようにテオフィールは問いかけた。
「――そうだ、クレアは見つかったか?」
その言葉にユーディトの背中が微かに震えた気がした。当の彼女に傷つけられた傷に痛みが走った。それを瞳を閉じてぐっと堪えるとユーディトはくるりとテオフィールと向き合う。青碧の瞳が余りに真っ直ぐで逸らしたくなったが何とかそれに耐える事ができた。
「行方、不明ですわ」
声が震えていなかったか、うわずっていなかったか。いつもの冷静で大人な自分で居られたかだろうか。そんなユーディトの心情を余所にテオフィールはそうか、と呟くと両手を組み、その上に顎を載せる。それに納得している様子は無い。彼女はそれ以上の追求を逃れるように部屋を後にした。
「陛下……」
「グレーテルから報告は来ている。クレアに反旗を翻す意志が今は無くてもその内に驚異にはなる」
腕の中のイーナは落ち着きを取り戻してはいたが二人の話している内容が分からないまま目をぱちくりさせるだけ。イアンは彼女の手を取ると少し散歩に行こう、と誘い出したのだった。腕の中の暖かさが失せると冷静に頭が働き始めるのを感じる。テオフィールはヘンゼルを目の前に溜息を一つ吐いた。
デーベライナー邸に負傷したユーディトを送った後にグレーテルが真っ先に向かったのはテオフィールの所だった。彼女はテオフィールとエリクが王族として舞い戻る前のクレアとユーディトの関係を事細かに教えてくれた。初めて知った真実と今まで疑問に思っていた事が氷のように溶け出すのを彼は感じた。だが、それを今まで隠し通していたグレーテルやヘンゼルを叱責する気にもならなかった。何も知らずにクレアに接していた自分も同罪だと思ったのだろう。だが、ユーディト自身はまだそのことを隠したいようだ。
「ユーディトが真実を話す事はあり得ない。此方が待っていても無駄だろうな」
他人を頼らない彼女ならば十分にあり得る事だ。ましてや自分自身で処理をしようとするだろう。だがクレアも簡単にやられるほど弱くは無いのを彼は知っている。
「クレアが居なければ【雷の宝珠】の絆もなくなる。そして砕けた【氷の宝珠】。これで状況は俺達が帰還する前とは変わらない。俺の立てた仮説を実践してみる良い機会だな」
「何を悠長なことを仰るのです。問題は山積みなのですから……陛下、逃がしませんからね」
ヘンゼルの金眼が恐ろしく鋭く光ったような気がした。
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